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神戸地方裁判所 昭和53年(わ)179号 判決 1985年10月17日

主文

被告人は無罪。

理由

(凡例)

以下の判文では、次のような用語法、略称、略号を用いる。

○ 公判調書中の供述記載、証人尋問調書中の供述記載が証拠となる場合でも、単に、供述・証言と表現する。

○ 司法警察員、検察官に対する供述調書は、員面調書・検面調書とし、捜査復命書は捜復と略記する。

○ 例えば、司法警察員(検察官)に対する昭和四九年四月一〇日付供述調書については、49.4.10員、49.4.10検と略記する。

○ 謄本・抄本についてはこれらの表示を省略する。

○ 職員、園児、捜査官の氏名については、単に、姓または名のみで示す場合もあり、指導員、保母、警視、警部補等の表現は事件当時あるいは取調担当時のものを用いる。

第一  はじめに

本件公訴事実は、「被告人は、社会福祉法人・甲山福祉センターが経営する精神薄弱児施設である兵庫県西宮市甲山町五三番地所在の甲山学園の保母として昭和四七年四月から勤務しているものであるが、同学園青葉寮に収容している丙川太郎(当時一二歳)を殺害する目的をもつて、昭和四九年三月一九日午後八時ごろ、同児を同学園青葉寮から連れ出したうえ、同学園内の北部にある水深約一・五メートルの汚水浄化槽内に投げ込み、よつてそのころ同槽内で同児を汚水吸引により溺死させて殺害したものである。」というにある。

当裁判所は審理の結果被告人は無罪であるとの判断に達したが、その理由は以下に述べるとおりである。

第二  事件の概要

一甲山学園の概要

1施設、収容園児の状況等

甲山学園は、社会福祉法人・甲山福祉センターの経営にかかる精神薄弱児施設であり、原則として一八歳未満の重度、中・軽度の精薄児を収容し(定員一〇〇名)、これら収容児について、日常生活を通じての生活指導・訓練を実施し、学齢期に達した者に対しては小・中学校教育を行つていた。

学園内にある主な施設としては、重度の精薄児を収容する若葉寮、中・軽度の精薄児を収容する青葉寮のほか、園長・副園長らの執務する事務室などのある管理棟、青葉寮収容児の食堂等のあるサービス棟、授業の行われる学習棟・新学習棟のほか用務員宿舎などがあり、その状況は別紙(一)(甲山学園見取図)のとおりである。

学園の敷地は、高さ約二・二メートルの金網のフェンスで囲われ、施設外と区切られており、若葉寮の西端とサービス棟の東端とを結んだ線上に設けられた正門以外には学園に出入りする入口がない。

青葉寮は、玄関を中心に「へ」の字型になつた平屋建の建物で、西側にのびる男子棟と東側にのびる女子棟とがあり、玄関を入つてすぐ北側のディルームには、テレビが設置され、児童らの遊戯室、娯楽室として使われ、冬にはこたつが設けられていた。

男子棟には運動場に面して一〇の部屋があり、ディルームに最も近い部屋が保母室となつているほかは園児の居室にあてられている。一方、女子棟には同様に八つの部屋があり、ディルームに最も近い部屋が保母室に、その東隣の部屋が洗濯物仕分け室となつているほかは園児の居室となつている。

これら園児の居室の運動場側はガラス戸になつているが、反対側に廊下があり、廊下をはさんだ向い側のディルームに近いところに、物置・トイレ・洗面所が設けられ、女子棟トイレの外側に本件汚水浄化槽が設けられていた。

以上の配置状況は別紙(二)(青葉寮平面図)のとおりである。

昭和四九年三月の本件当時、青葉寮には男子三一名、女子一六名の園児が収容されていたが、収容児の氏名・生年月日・居室割当等は別紙(三)のとおりである。

2職員構成と職員の勤務体制等

昭和四九年三月当時、甲山学園には園長以下二九名の職員がおり、園長・副園長各一名、指導員(四年制大学卒業者)一〇名、保母(短期大学等の卒業者)一二名、事務員及びボイラー技師各一名、用務員三名、実習生一名が在籍していた。なお、青葉寮担当の指導員は三名、保母が七名であり、被告人は、保母として青葉寮に配置されていたものである。

青葉寮を担当する職員の勤務体制は、普通の日勤(午前八時四五分から午後五時まで)、早出勤務(午前七時三〇分から午後三時三〇分まで)及び宿直勤務(午後八時四五分から翌日の午前八時四五分まで)の三種類に分かれており、日曜・祝日の日勤については終業時間が午後四時三〇分に繰り上げられていた。

なお、青葉寮における昭和四九年三月一七日(日曜日)の日勤者は、西田政夫(指導員)と岡こと高尾紀代―以下、「岡」という。―(保母)、宿直者は西定春(指導員)と被告人であり、三月一九日の宿直者は西田及び岡の両名であつた。

二園児の行方不明と死体の発見

甲山学園では、昭和四九年三月一七日、三月一九日の両日、あい次いで青葉寮の園児が行方不明となり、一九日の夜、右二名の園児の溺死体が本件浄化槽内で発見されるという痛ましい事件が発生した。

この経過は、関係証拠によれば、おおむね次のとおりであつたと認められる。

1三月一七日の午後、園児の夕食時間であるのに、青葉寮の園児・丁川花子(当時一二歳)が食堂に姿を見せず、花子の居場所がわからない旨被告人から告げられた西は、学園の内外を捜したが、花子の姿を発見できなかつたので、副園長・山崎種之に連絡した。その後、学園にはせつけてきた山崎副園長をはじめ非常招集を受けて出勤した学園職員のほか、学園からの通報で出動した警察官らが、翌一八日の午前一時ごろまで学園の内外にわたつて捜索したものの、成果を得られなかつた。

2三月一八日も、朝早くから、学園職員らが園の内外を捜索したが花子の所在を確認できず、午後五時ごろ捜索活動を中断した上、花子の捜索ビラを作り、これを携えた男子職員らが夜半ごろまで捜索活動をつづけた。

3翌一九日は、花子の捜索ビラをひろく一般市民に配布して協力を要請するなどの打合わせに基づき、管理棟事務室で捜索ビラの印刷や花子の顔写真入りの立看板の製作等がなされたすえ、職員らがビラの配布に出向いたりした。

4以上のように、学園あげての捜索活動が展開されたにもかかわらず、花子らしい児童の発見につながる情報を得られぬまま経過していたところ、三月一九日の午後八時ごろ当然青葉寮内にいなければならない筈の丙川太郎(当時一二歳)の姿が見当たらず、当夜の宿直勤務についていた西田、岡らが園児の居室等を捜し歩いたが太郎を発見できなかつた。その後、当時園内にいた職員らが園内全体にわたる捜索を行うとともに、午後八時五六分ごろには学園から西宮警察署に一一〇番通報がなされた。

5一方、西は、ボイラーマンの神代兵吾とともに青葉寮女子棟裏の浄化槽を見にいつた際、マンホールのふたはきつちりと閉まつていたが、念のためにふたを開けた上浄化槽内の汚水を竿でかきまぜてみたところ、浄化槽内に沈んでいる花子、太郎両名の死体を発見した。

6そこで、死体発見の一一〇番通報を経て、西宮市清掃第二課の汚泥車二台が現場に到着し、午後一一時ごろから汚水吸い上げの作業にとりかかり、午後一一時四〇分ごろ花子の遺体が、同五〇分ごろには太郎の遺体がそれぞれ引き上げられた。

第三  捜査の経過

関係証拠及び検察官の主張に沿つて、本件捜査の経過を要約すると、その概要は次のとおりである。

1前記のような死体発見の経過等にかんがみ、兵庫県警察本部ではこれを殺人事件と断定し、三月二〇日所轄の西宮警察署に捜査本部を置き、捜査に着手した。

2捜査本部では、三月二〇日の午前一〇時三〇分ごろから午後五時ごろまでにかけて、捜査員らが、学園の敷地周囲に設けられているフェンス及びその外側周辺につき、犯人の潮待ち場所、侵入・逃走等の痕跡、遺留品の有無などを明らかにするため、検証を実施したが、犯人が外部から学園内に侵入して犯行に及んだとうかがわせる証跡は発見されていない。

3一方、捜査本部の嘱託により、三月二〇日、神戸大学医学部法医学教室所属の医師・溝井泰彦の執刀で死体の司法解剖がなされた。その結果、太郎の死因は溺死であること、同児の左右頭頂後頭部に三か所の皮下出血が認められるほかには新しい外傷のないこと、同児の胃内にはかなり消化された米飯などに加え、ほとんど消化されていないみかんのあること等が明らかとなり、夕食後二ないし三時間を経過したころに死亡したものと鑑定されている。

4捜査本部では、右のような捜査結果等に照らし、学園の部内者が太郎を本件浄化槽に投げ込んで殺害した可能性が極めて大きいとの判断に立ち、学園の職員、青葉寮の園児及びその保護者らに対する事情聴取を重ねた。

5そこで、捜査本部が想定した犯行時間帯に太郎殺害の行為に出ることの可能な職員の中でアリバイ等の存する者を容疑圏内から消去しながら嫌疑の対象者をしぼり込む形で捜査を進めるうち、青葉寮の園児・Mから「女子棟さくらの部屋で遊んでいた太郎が被告人に呼び出され、女子棟廊下の非常口の方へ連行された。」とうかがわせる供述を得たこと等により、捜査本部は、被告人が太郎殺害の犯人であると判断し、昭和四九年四月七日被告人が本件殺人の被疑事実で逮捕されるに至つた。

6その後、被告人は兵庫県警本部付設の代用監獄に留置され、身柄付送致を受けた神戸地方検察庁尼崎支部と県警は、被告人を取り調べるとともに、学園の職員・園児らからの事情聴取を行うかたわら、被告人の着衣と太郎の着衣との間の繊維相互付着に関する鑑定等の裏付け捜査を実施した。

7右のような経過の中で、被告人は四月一七日から二一日までの間、警察官の取調べに対し、犯行を認める趣旨の供述をしたが、神戸地検尼崎支部では勾留期間の満了する四月二八日の時点で処分保留のまま被告人の身柄を釈放し、その後も被告人の嫌疑を補強する証拠の収集を継続した。

8しかし、神戸地検では、昭和五〇年九月二三日、当時までに集められた証拠関係によつては公訴の維持が困難であるとして被告人を不起訴処分に付した(以上の捜査を「第一次捜査」という。)。

9その後、神戸検察審査会は、太郎の両親の申立を契機に、同年一〇月八日職権により立件した上、右不起訴処分の当否についての審査を遂げ、翌五一年一〇月二八日「不起訴不相当」の議決を行い、同年一二月一〇日右議決書の送付を受けた神戸地検は直ちに再捜査(「第二次捜査」という。)を開始した。

10神戸地検では、学園の職員、その他の学園関係者等に対する事情聴取・取調べにより、被告人の本件当夜のアリバイ関係の捜査を実施するとともに、本件当時甲山学園に在園した元園児(以下、単に「園児」という。)からの事情聴取等を進めたところ、被告人が本件当夜青葉寮女子棟の非常口付近で太郎を寮外に引きずり出す前後の状況を目撃したとするFの新供述を得たほか、これを補強するとみられるSの供述が得られ、更に第一次捜査の過程で収集されていた証拠等を再吟味するための参考人取調べを重ねたすえ、昭和五三年二月二七日被告人の再逮捕に踏み切つた。

11被告人は検察官の取調べに対して黙秘を貫いたが、園児に対する事情聴取等により、K及びAの両園児からも、被告人の犯行を裏付けると解される供述を得ることができた。

以上が本件捜査経過のあらましである。

本件は、殺人の被疑事実で逮捕・勾留された被疑者に対し、長期間に及ぶ捜査の結果、いつたん不起訴処分がなされたのにかかわらず、処分後約二年半を経過して再び同一の犯罪事実で再逮捕の上公訴が提起されるという異例・特殊な経緯をたどつたものであり、そのこと自体、本件が難件に属する事実を示していると言つてよい。

第四  検察官の主張事実及び本件の証拠関係と判断の順序等

一検察官の主張する事実経過

冒頭陳述及び論告に徴し、検察官の主張する事実関係ないしその経過を要約すると、おおむね次のとおりである

1昭和四九年三月一七日の午後、本件浄化槽の上で遊んでいた花子が、ふたの開けられていたマンホールから浄化槽内に転落するという事故が発生した。

被告人は指導員・西定春とともに同日の宿直勤務についていたところ、たまたま花子の転落事故の現場を目撃した。そこで、突然に起こつた重大な出来事に直面した被告人は、西に連絡しようかとも考えたが、宿直勤務である被告人ひとりいた際のことであり、園児の監護に手落ちがあつたという責任問題になると危惧し、このまま知らぬ顔をしていれば自分ひとりで責任を負わなくてもよいと考え、花子を救助しようとしなかつたばかりか、前後の考えもなく、マンホールのふたを閉め、花子を見殺しにしてしまつた。

2その後、学園あげての花子捜索の活動が展開されたが、そのうち、被告人は、もしこのまま花子が発見されなければ、自分が花子を殺害したと疑われるのではないかとの懸念を強め、他の職員が宿直の際にも園児が行方不明となり、これが発見されなければ、花子殺害の疑いをかけられず、同児を見殺しにしたことの責任も回避できると考えるに至つた。

そこで、西田と岡とが宿直勤務についている三月一九日、被告人は、青葉寮の園児を浄化槽に投げ込んで殺害し、あたかも行方不明になつたかのごとく見せかけようと思い立つた。

3かくして、三月一九日の午後八時ごろ、被告人はこすもすの部屋の運動場側から青葉寮内にはいり、廊下に出てさくらの部屋の前にきたとき、たまたま戸の開いているさくらの部屋で遊んでいる太郎の姿を認め、同児をマンホールに投げ込んで殺害しようと決意した。

4そこで被告人は、太郎を廊下に呼び出した上、女子棟廊下東方の非常口付近まで連れていき、廊下にしやがみ込んだり、廊下をはつて逃げようとした太郎の足をつかんで非常口から外へ引きずり出し、浄化槽まで運び、いつたん同児を下におろしてマンホールのふたを開け、正面から太郎の両脇の下に両手を差し込んで抱きあげた上、マンホールの穴の上まで持つていき、太郎の身体を被告人の身体に密着させながら浄化槽内にずり落とし、太郎を殺害した。

以上が検察官の主張する事実経過の大綱である。

二証拠関係と判断の順序等

1検察官は、前記のような主張事実を明らかにする証拠として、第一次捜査段階での被告人の警察官に対する自白のほか、犯行の動機を裏付けるKの検面調書、犯行の状況につき、被告人が太郎を連れ出す現場を目撃した等というFほか三名の園児の証言及び検面調書、Kの検面調書等のほか、犯行の態様に関する被告人の自白を補強する繊維の相互付着の状況(被告人と太郎の各着衣を構成する繊維が互いに付着し合つていること)についての鑑定結果等を援用し、本件公訴事実の証明は十分である旨主張する。

2ところで、本件においては、被告人と公訴事実との結び付きを肯認せしめる客観的・決定的な物証はなく、第一次捜査当時での被告人の自白も断片的・概括的なものに過ぎないのであるから、捜査・審理の経過に徴しても明らかなように、結局のところ、園児らの証言・供述、とくに第二次捜査段階でなされた新供述及びその内容に沿う証言の信用性についての判断が本件の帰趨を決すると言っても過言ではない。

そこで、まず園児供述の信用性について、総括的・個別的な考察を行ない、これに関する当裁判所の見解を明らかにした上、第一次捜査当時になされた被告人の自白の信ぴよう性及びいわゆる繊維鑑定の証拠価値についても必要な限度で検討を加えることとしたい。

第五  園児供述についての総括的考察

一検察官の主張する園児供述の組立て

検察官は、本件当夜被告人が青葉寮から太郎を連れ出した前後の状況について、証人として取り調べた園児五名の供述(以下、とくに区別する必要のない限り、期日外証人尋問の際の証言と警察官・検察官に対する供述とを合わせて、「園児供述」という。)に基づき、おおよそ次のような事実経過を構成・主張している。すなわち、

1Kの検面調書によれば、Kは本件当夜青葉寮のディルームでテレビを見ながらマーブルチョコを食べはじめたころ(午後八時の直後)、同寮女子棟保母室前辺りの廊下に立ちディルームの様子をうかがつている被告人の姿を見かけており、その後、女子便所へ行くため女子棟廊下の方まで出た際、廊下上のぼたんの部屋近くにいる被告人と太郎を目撃したことが認められ、

2Mの証言・検面調書によると、そのころ、Mはさくらの部屋で布団の中に入つていたところ、Sが同室で遊んでいた太郎を呼びにきたが、太郎は帰ろうとせず、その後ディルームの方から歩いてきた被告人が太郎を部屋の外に呼び出したこと、そのあとMは部屋の戸が開いたままであるのに気付いてこれを閉めにいつた際、太郎のうしろに被告人が並ぶようにして非常口の方へ廊下を歩いて行く場面を目撃したことが認められ、

3Sの証言・検面調書によれば、Sは、イナズマン(午後八時で終わる。)のテレビを見終つたのち、さくらの部屋で遊んでいる太郎を呼びに行つたが、太郎は帰るのをいやがつたこと、そこで自室へ引き返そうとしている途中、Fに出会つたので、太郎をまつの部屋へ連れて帰つてくれるようFに頼んだことが認められ、

4Fの証言・検面調書によると、Fは、Sに頼まれて女子棟へ行つたところ、被告人と太郎とが女子棟の廊下を非常口の方へ歩いて行くのを目撃したこと、そこで、Fは女子便所に身をひそめてなおも二人を見つづけていると、太郎が廊下にしやがみ込んだりして立とうとせずいやがつていたのに、被告人が逃げようとする太郎の足首をつかむなどした上、太郎を非常口の外へ引きずり出す状況を現認したことが認められ、

5Aの証言・検面調書によれば、Aは、ディルームでマーブルチョコを食べながらテレビの歌番組(午後八時からの「歌謡ビッグマッチ」)を見ていた際、被告人と太郎の二人が女子棟廊下を非常口の方へ歩いて行くのを目撃したこと、なお、Aは、その前に、Fが女子棟の方へ行くのを見ており、また被告人と太郎の姿を目撃したあとでFが女子棟の方から歩いてくるなどの(Fの供述する同人の動きと符合する)状況を現認していることが認められる、というのである。

以上の経過を検察官の主張に即して整理すれば、(1) 被告人がさくらの部屋に赴く直前の姿をKが目撃し、(2) 次いで被告人がさくらの部屋から太郎を呼び出すところをMに気付かれ、(3) その後被告人と太郎が女子棟の廊下を歩いている状況をM、F、A、Kの四名が目撃し、(4) 被告人が太郎を非常口から無理やり引きずり出す(殺害行為直前の)場面をFが現認していることとなる。

右のような園児供述に基づく検察官主張の事実経過の構成は、言うまでもなく、園児供述の内容及びその信用性について検察官なりの解釈や評価を加えた上でのものではあるが、少なくとも、その限りでは、園児らの各供述が相互に一致・照応し、互いに補強し合う関係に立つていると言うことができる。

二園児供述をめぐる問題点

1園児証人に対する尋問の経過

右に紹介した五名の園児は、いずれも、昭和四九年三月の本件当時、甲山学園在園のいわゆる知恵おくれの精神薄弱児であつた。

ところで、これら園児の証言能力に関しては、個々の証人ごとに、事件発生の当時及び証言時点での精神的状況、尋問を予定されている証言事項の内容等を考慮し、個別的・具体的に検討された結果、証言能力ありと判断されたすえ証人尋問が行われた。

もつとも、各証人について、その尋問に先立ち、当時の裁判長により、宣誓の趣旨を理解する能力をそなえているか否かが確認された結果、宣誓無能力者と判断されている。

更に、これら園児証人の取調べの方法については、その心身の状況や年齢等に徴し、できる限り精神的な圧力を受けずに穏やかな雰囲気の中で証言し得るような条件を与えるのが相当であるとの観点から、神戸地方裁判所尼崎支部(F証人については、一回だけ姫路支部)の会議室において期日外証人尋問の手続で施行されたものである。

2捜査段階での園児供述の経過に見られる特異性

本件では、Kを除く四名の園児証人は、証人尋問、少なくとも検察官による主尋問の際、捜査段階で述べていた供述(但し、捜査官に対する供述の最終形)とおおむね符合する証言をなしており、したがつて、捜査官に対する供述の信用性についての評価が同時に証言の信ぴよう性に関する判断と密接に連動する関係に立つている。

ところが、園児らの捜査段階における供述の経過には、かなり特異な事情が認められるので、まずこの点について概観する。

本件は、昭和四九年三月一九日に起こつた事件であるが、甲山学園の部内者による殺人事犯との見方に立つた兵庫県警捜査本部では、青葉寮の園児に対しても事情聴取を重ね、Mからは、被告人が本件当夜さくらの部屋で遊んでいる太郎を呼び出したと解する余地のある重要な供述を得たものの、他の園児からは被告人の犯行立証につながりそうな供述を得られぬまま経過した。

M以外のFら四名も、神戸地検が不起訴処分に踏み切つた昭和五〇年九月までの間、かなりの回数にわたり警察官・検察官による事情聴取ないし取調べを受けており、正式の供述調書が作成された分に限定しても、Fについては検面調書一通、員面調書三通、Sについては検面調書が四通、員面調書四通、Aについては検面調書一通、員面調書七通、Kについては検面調書三通、員面調書六通が作られている。

ところが、第二次捜査の段階にはいつてのち、司法警察員・西村末春巡査部長がFに対する事情聴取を行つた際、同人から「本件当夜、被告人が青葉寮女子棟の非常口のところで太郎を寮外へ引きずり出している現場を目撃した。」旨重要な新供述を得た。そこで、第二次捜査を進めていた神戸地検の検察官は、このFの新供述を重視し、これを手がかりに、あらためて園児供述の再収集に乗り出し、五園児につき多数の供述調書が作成されている。

しかしながら、すでに第一次捜査当時被告人の犯行前の動きに関連するかのような供述をしていたM及び前記Fを除くその余の園児については、必ずしも容易に目ぼしい供述を得られたわけではなく、Fに関しても供述内容を確認し、あるいはその問題点を吟味する見地から多数の供述調書を作成するなど園児供述の再収集にはかなりの日時が費やされたものである。

すなわち、Fと同じく当時出石学園に在園していたSの場合は、昭和五二年五月段階でFの新供述に見合う趣旨の供述を得ることができたものの、Kの場合には、本件が起訴されたのちである昭和五三年三月一三日に至つて、本件当夜被告人と太郎とが女子棟ぼたんの部屋付近にいるのを目撃した旨の供述が得られ、また、Aの場合も、右同様本件起訴後の昭和五三年四月、被告人と太郎の両名が女子棟廊下上にいる状況を目撃した旨の供述を得ることができたのであつて、検察官の主張に相応する園児供述の獲得がいかに難航したかは容易に推察できよう。

したがつて、F、Sの新供述は事件後約三年二か月、K、Aの新供述に至つては事件後約四年を経過した時期に顕在化したものであり、かような供述の出方自体、すこぶる特異なものと言うことができる。

3園児供述に内在する疑問点

右の一連の経緯に徴すると、そもそも、これらの新供述が、もし各園児の体験と記憶に沿つた真実を述べているものであるとすれば、何故もつと早い時期にその供述が出ていなかつたのかが第一の疑問である。

F、A、Kらが、本件当夜太郎の行方不明が確認された直前と思われるころに被告人と太郎が女子棟廊下にいたのを目撃しておりながら、三年ないし四年もの長い期間にわたり、その事実を自らの記憶の奥深くあたためていたというからには、よほどの理由があつたとしか考えられない。したがつて、これら新供述の顕出を阻む理由となつていた事情の有無・内容及びその合理性如何がまず検討を要するテーマと言えよう。

次に、ごく普通に考えてみて、三年ないし四年以前に体験した事実についての記憶を、こまかな時間的経過に至る克明な状況まで含めて、何ら変型しないまま保持しつづけることがおよそ可能なことであろうか。

本件では、① 供述・証言の対象となつているのが三年ないし四年前の出来事である上、② 例えば、ディルームの付近や女子棟廊下に保母である被告人と園児である太郎とがいつしよにいるような情景は、学園内の日常生活の場面でしばしば見られるものであるばかりでなく、午後八時から二、三分という短時間のうちの動静にかかる状況であるから、③ 新供述にあらわれる目撃事実(少なくとも、Fを除く、K、Aの目撃供述の内容)は、もともと長期間にわたり記憶に深く刻まれるような性格のものと言い得るかどうか疑わしく、④ 果たして本件当夜の出来事として正確に認識されているのか否かが第二の疑問である。

4「記憶に深く刻まれていた」旨の検察官の主張について

(一) 検察官の主張

検察官は、この点に関し、次のように主張する。すなわち、

「これら園児の目撃した内容は、K、M及びFの三名は、当夜太郎が行方不明となり、西田や岡らが太郎を一生懸命に捜している事実を知つており、その上、太郎が死体となつて発見されるという、学園生活の中では極めて非日常的な出来事に遭遇した日の、しかも深刻な衝撃を受けた事件が発生した直前のことであり、Mは被告人が太郎を呼び出した上、二人が非常口の方に向かつて歩いていくのを見たのであつて、Mとしてはこの出来事と太郎の死亡の事実とは極めて密着したものとしてその記憶に深く刻みつけられていたことは言うまでもないところである。

中でも、Fは、被告人が太郎を連れ出す状況を見て、恐怖をおぼえて女子トイレに身を隠し、その後の状況を注視していたのであつて、被告人が太郎を引きずり出したあと、非常口のドアを開けてみようとしたり、廊下の窓から外をのぞいたあとわざわざ洗面台に上がつて外を見ようとするなど、極めて強い好奇心にかられ、関心をもつて事態の推移を注視していたのである。しかも、一方では、自分が太郎の連れ出されるのを見たことがわかると、自分も太郎のように連れ出されるのではないかとの恐怖心におそわれているのであり、このときの出来事は、Fにとつて単なる傍観者としてではなく、自らの身の危険と密接に関連する出来事として記憶に深く刻みこまれていたものである。

Kも、宿直でない被告人がディルームの様子をうかがつているのを見てKなりに奇異に感じたであろうことは十分推察できるばかりか、これらの状況を目撃した直後に、西田や岡が太郎を捜しはじめたのでK自身玄関にいつて太郎の靴があるかどうかを確かめたというのであり、自己の直接体験と結びついて記憶されているのであつて、Kの記憶内容もまた極めて鮮明に、しかも深刻なものとして刻まれていたことは明らかである。」

(二) 検察官の主張についての疑問

たしかに、非日常的で特異な出来事に出会つた場合、その体験内容が記憶に長く残りやすいことは、検察官の主張するとおりであろう。

しかし、特異な出来事が起こるであろうことを予測していた場合ならともかく、およそ特異で印象的な出来事の発生する予兆が全くなかつた段階での日常的な出来事まで記憶に長く残りやすいと言えるであろうか。

しかも、検察官は、これらの園児が非日常的な出来事に直接「遭遇」したことを前提とした上で、前記のような論旨を展開しているところ、これら園児自身、太郎の死体が浄化槽内から発見されるという特異かつ衝撃的な事件を、いつ知つたのか、またこれについていかなるショックを受けたのか、証拠上何ら明らかにされていないのである。

更に、検察官の主張にしたがえば、本件当夜太郎の姿が見当たらないとして西田や岡らが懸命に捜索活動をしている際、Kらがその目撃事実を職員に告げようともしなかつたことこそ極めて不可解ではあるまいか。この点に関しては、後に述べることとする。

一方、本件当夜、太郎・花子の死体が発見された事実に直接遭遇し、文字どおり深刻なショックを受けた筈の学園職員、とくに西田や岡の場合であれば、検察官の主張がある程度妥当するかもしれない。ところが、西田の供述においても、初期供述の段階から公判証言に至るまでの間、本件当夜の状況のうち重要な事項に関し看過し難い変遷が認められるのであつて、この点から見ても、検察官の主張にはにわかに同調できないと言うべきである。

そして、検察官の所論は、本件当夜被告人と太郎を目撃した旨供述している園児が、実際にその供述する日時・場所で、その供述どおりの事実を体験したという立場からの主張である。しかし、右園児らが真実かような体験をしたのかどうかがまさに重大な争点となつているのであるから、結局のところ、検察官の主張は、園児供述が真実を述べていることを前提とした上でその信用性を肯定し得る根拠を説明するという誤りりをおかしているのではあるまいか。

以上のとおりであるから、各園児の供述内容が「記憶に深く刻まれていた」事実だとすることには多くの疑問が残るのであつて、事件後三、四年も経過した時期になされた園児の新供述の信用性を判断するには極めて慎重でなければならないことが明らかである。

5新供述の出方に関する検察官の主張について

(一) 検察官の主張

検察官は、F、K、Aの新供述が得られるまでに異常とも思われる年月を要した事情につき、次のように主張している。すなわち、

「Fは甲山学園在園当時、同学園の西指導員から強く口止めされ、父親からも余計なことを話さぬよう注意されていたものであり、Kの場合も、太郎や花子の事件の関係で被告人のことに言及するのを口止めされるなど強い圧力を加えられていたとうかがわれ、Aも西の口止めにより被告人に関連する事実を述べることに抵抗し、悩んでいたものであつて、これらのプレッシャーのために、事件後三、四年を経たころにはじめて真実を供述するに至つたものと解される。」というのである。

(二) 検察官の主張についての疑問

しかしながら、検察官主張のような口止め等の圧力が加えられていたとうかがわせる客観的な証拠はなく、ただ園児証人の何名かが漠然とした表現で口止めをされていたかのような証言や供述をしているというにとどまり、その時期や内容など具体的な事実は全く明らかにされていないのであつて、検察官の主張するような事情では、園児証人が事件後三年以上も経過するまで本件に関連する目撃事実を述べないで通したことを合理的に説明し難いと言うべきである。

更に、Mの場合、本件後比較的早い時期に、被告人に累を及ぼすような事実を供述しているのであるが、同女のみは検察官主張のような圧力を受けなかつたのか、あるいは、受けたとしてもこれに屈服しなかつたと言うのであろうか。そうだとすれば、それなりの特別な合理的理由がなければならないが、その疑問を解消するに足る事情は全くうかがわれない。

ところで、口止めというからには、口止めをした者において、FやK・Aらが本件について重要な事実を見聞しており、これを明らかにされると不都合な事態が起こるおそれのあることを知つていたという前提がなければならないであろう。しかしながら、これら園児が「口止め」を必要とするような情報をもつている事実を西やFの父親が感付いていたとうかがわせる事情は認められない。しかも、Fの父親の場合には、もしFが本件の中核に関連する事実を知つていることに気付いたならば、捜査関係者に通報もせず、Fに「口止め」をしなければならぬ動機・理由が奈辺にあつたのか理解に苦しむと言うべきである。

更に、Kは、第一次捜査段階で、「テレビの歌番組を見ていた際、被告人が女子棟の方へいつた。」(49.4.11員)「マーブルチョコをもらつてから被告人を見た。」(49.5.15員)等の供述をするなど、その真否はともかく、被告人に関連する事実を述べており、Aも、第一次捜査の当時、「西田、岡先生から太郎がいないと聞いてのち、自分が男子棟を捜しているとき、ディルーム入口のところで、黒のズキンのついたオーバーを着た被告人を見た。」旨述べているのである。

K・Aの両名が右のような供述をしている事実は、検察官の言う「口止め」説を軽々に採用し難いことを示している。

一方、Fについても、第一次捜査段階で、「沢崎先生が警察から帰つてきたとき」のこととして、被告人に対し、「太郎、花子ちやん殺したやろ。」と直接問いかけた旨供述しているのであつて(50.8.8員)、その真否は別としても、検察官主張のような理由で口を閉ざしていた者とは思えない供述と解されるのである。しかも、Fは、右と同じ日に「被告人に対して『先生が太郎を連れていつているところを見た。』と言つた。」旨証言しており(56.6.4の証人尋問)、F自身の供述相互間に重大な矛盾の存することが明らかである。

ところで、Kの場合、第二次捜査段階の昭和五二年四月から七月ごろまで、あるいは同年末から翌五三年中旬ごろまで、またAの場合も、昭和五三年の三月から四月中旬過ぎまで、それぞれ多数回にわたり捜査官の取調べを受けながら、被告人の犯行を裏付ける趣旨の事実を言い渋つていたものである。検察官の主張にしたがえば、「真相」を述べてもらいたいと期待する捜査官の粘り強い働きかけにも勝るほど、一私人である学園関係者の圧力が大きかつたと解釈しなければならないことになるが、その論理の不当性は言わずして明らかであろう。

これらを総合すれば、新供述の出方に関する検察官の主張には説得力が乏しいと言うべきである。

三本件当夜の園児証人らの言動

本件当夜の午後八時二、三分過ぎごろ、当然青葉寮内にいなければならない筈の太郎の姿を見かけないことに気付いた当夜の宿直職員・西田指導員及び岡保母らは、園児の居室を見てまわつたすえ、園児らに太郎を知らないかと問うたりしながら、懸命になつて太郎を捜していたことが明白である。

一方、その直前に太郎及び被告人を目撃したと証言・供述しているM、F、A及びKの四名とも右の捜索活動を知つており、現に、AとKはそれぞれこれに協力して居室を見にいつたり玄関の靴箱に太郎の靴があるかどうか確かめるなどしているのである。

ところが、Mは捜しにきた職員に何も答えていないし、Fは、西田かから「太郎を知らないか。」と問われているのに、「知らない。」としか話していない。その時点では、太郎の死体が発見される前のことであり、よもや太郎が本件浄化槽内に落ちているなど想像する者のあり得ない状況であつたし、いわんや口止めとか西の圧力など全く関係のなかつたことは言うまでもない。各園児が太郎目撃の事実を話すのにブレーキとなるような事情はなかつた筈である。

そうだとすれば、F、Mにせよ、AやKにしろ、もしその供述で述べているような場面を実際に目撃していたのであれば、それはごく数分前に(長く見ても一〇分ないし一五分前に)見たばかりの記憶に生々しいことであり、それを話せば太郎の居場所を捜すのに手がかりとなるのはた易く理解できた筈であるのにかかわらず、同人らが捜索活動に関与したり職員に伝える機会があつたりしながら、その直前に体験した目撃事実をだれ一人として告げようともしていないのは何としても理解に苦しむと言うほかない。

なお、西田証言によれば、Aは単に、「太郎は七時半までいたよ。」と答えただけだというのであるし、岡証言によると、Kは、岡保母から「太郎は七時半までいたよね。」と問われた際、これに肯いたのみであつたというのである。検察官の主張どおりの状況をAやKが実際に目撃していたとすれば、この両名はなぜかような対応に出たのか不可解である。

一方、検察官は、Fに関して、「西田先生が捜しに来た際もし自分が見たことを先生に話せば、自分も太郎と同じようなひどい目に合わされるのではないかと恐しくなつて『知らない。』と嘘をついた。」旨のFの供述に沿つて、同人が真相を話さなかつたのは自然なことである、と主張する。

しかし、Fは、「太郎が帰つてくると思つていたので、『知らん。』と嘘をついた。」とも供述しており(52.5.10員)、F自身の説明が動揺・変遷しているが、その点はともかく、Fにとつて西田は強い信頼関係で結ばれている甲山学園の指導員である。もし、恐怖心におそわれていたのであれば、そのまま「こわい」思いをひとりでかかえ込みながら床に就くよりも、信頼できる西田指導員に目撃事実を告げ、自己の心情を訴えることこそ自然な言動ではなかつたかと思われる。検察官の主張は、当時の甲山学園における指導員・保母と園児との間の信頼関係が大幅にくずれていたとの前提に立たない以上、到底採用できない。

以上の状況に照らせば、本件当夜太郎と被告人の姿を目撃したという各園児は、太郎目撃という体験事実を第三者に伝える絶好の機会があり、しかも、これを話すのに妨げとなる何らの事情もなかつたのにかかわらず、口をつぐんでいたことになり、してみると、これら園児の目撃供述が真実の体験とその記憶に基づくものであるか否か、すこぶる疑わしいと言わなければならない。

四まとめ

本件では、園児供述につき、それが精神遅滞者の供述であるという観点からの議論がいささか過剰であつたと思われる。たしかに、証人尋問の手続等の面では、証人保護の配慮により、多少異例な形式をふまざるを得なかつたという事情がある。

しかし、その証言や、これの母体となつている捜査段階の供述、とくに新供述と呼ばれているものの証拠価値を検討・判断するについては、精神遅滞者であるからといつて特殊な問題があるわけではない。

知能程度が優れていようと劣つていようと、事件後間もないころ犯行との結び付きをうかがわせる供述をしていなかつた者が、常識では考えられぬ程経過した時期になつて、にわかに犯行を裏付けるような重要な供述をはじめた場合、格別の合理的事情がない限り、軽々しくこれを有罪認定の証拠とすべきではないという平凡かつ一般的な採証法則の適用で足りる場面での問題に過ぎないのである。

本件審理の最終段階で、検察官は、F及びMの供述の信用性を立証するため心理学・精神医学の専門家による鑑定書の取調べないしその鑑定受託者の証人尋問を請求し、強くその採用を求めた。しかし、当裁判所は、本件に関する限り、検察官の主張するような行動科学者の知見を借りなければならぬ論点は全くないとの判断を固めていたので、これをすべて却下した。その理由は先に述べたところでおのずから明らかになし得たものと考える。

第六  園児供述に関する個別的考察

一はじめに

総括的考察の部分で述べたように、本件における園児供述は種々の点で多くの疑問をはらんでおり、その信用性を肯認するには躊躇せざるを得ない事情が認められる。

中でも、第二次捜査段階での新供述については、これを措信し難い理由が顕著であると言わなければならず、この点において本件公訴事実の立証は重大な破綻をきたしていると考えられるが、以下においては、各園児ごとにその供述の問題点を明らかにすることとしたい。

二Mの供述

1Mは、本件の当時甲山学園に在園していた小学校五年生(一一歳)の園児であり、青葉寮女子棟さくらの部屋を居室としていた。

Mは、最も初期の段階、すなわち事件から八日後である昭和四九年三月二七日の司法警察員による事情聴取の際、「被告人による太郎連れ出し」をうかがわせる趣旨の供述をした園児であつて、第一次捜査の過程で、捜査関係者が被告人に対する嫌疑を深めるに至つた重要な端緒を提供したものである。

2Mについては、右事情聴取に基づく49.3.27捜復をはじめ、昭和四九年四月三日以降五〇年九月五日までの第一次捜査段階で検面調書七通、員面調書六通、捜復四通、Mの説明に基づく実況見分調書一通が作成されており、第二次捜査に入つてのちは、検面調書三通、員面調書二通が作られている。

一方、Mに対する証人尋問は、昭和五五年一月一四日、二月四日、五六年二月一九日、三月一九日及び四月一六日の五回にわたり実施された。

3証言の内容

Mの期日外証人尋問における証言の内容は、あらまし次のとおりである。

「本件当夜、ディルームでキャシャーンを全部見てからイナズマンのテレビを見ている途中、さくらの部屋に戻つたところ、室内に太郎とRの両名が在室し、青色セーター、茶色ズボン姿の太郎が押入れの上にいて、Rが畳のところにいて両名で遊んでいた。パジャマに着かえて、先に自分が同室内廊下側に敷いておいた自分の布団に入つて、頭をディルーム側に向け顔を廊下側に向けて横になつていたところ、この日より前には太郎を呼びにさくらの部屋に来たことのなかつたSが廊下側入口のところまで入つてきて、太郎に寝ようと声をかけた。そしてSが室内に入つて来た際には目をつぶつていたため、その時のSの姿は目では見なかつたが、声でSの右行動がわかつた。Sの呼びかけに対し、押入れの上にいた太郎は応じなかつたため、Sが帰つていき、太郎は押入れの上からおりた。その後、この日より前には太郎を呼びにさくらの部屋に来たことのなかつた被告人がディルームの方向からさくらの部屋にやつて来て、部屋には入らなかつたが、太郎に対しおいでと声をかけたところ、太郎が部屋から出ていつた。このことは目を閉じていたため目では見ていないが、足音や声でわかつた。太郎が出ていつた後、廊下側入口の戸が開いたままになつていたため、その戸を閉めようとして戸のところまでいつたときに女子棟廊下の非常口方向を見たところ、廊下には電気がついていて廊下に黒色オーバー、紺色ジーパン姿の被告人と太郎の二人だけがいて、他には人がおらず、その二人がぼたんの部屋とばらの部屋の境目付近を太郎が前、被告人が後になつて非常口方向に歩いていくのが見えた。それ以上に二人を見ることもなく戸を閉め、布団に入つた。その際、さくらの部屋にいたのは自分とRの二人だけであつた。その後西田先生と岡先生がさくらの部屋に太郎を捜しに来た。このことも声でわかつた。」

4捜査段階での供述

まず、49.3.27捜復によれば、Mは三月一九日夕方、さくらの部屋で、太郎、R、N、Mの四人でトランプをしていると、「被告人が太郎君ちよつとおいでと言つて太郎の手をつないでさくらの部屋から出ていつた。そのあとNは、Nの部屋に戻り、自分とRは布団の中に入つた。」旨の話をしており、次いで、49.4.3員では、「本件当夜イナズマンのテレビを見ずにさくらの部屋に帰つたところ、太郎とRが室内にいた。Sがやつて来たが、太郎はウウとおこつて手を上げて帰らず、その後女の先生が来た。顔は見ず、廊下の方からの声を聞いた。それから寝たが、被告人や岡先生・西先生・西田先生・神代さんが太郎を捜しに来た。」旨供述している。

また49.4.4員では、「本件当夜イナズマンを少し見て眠くなつたのでさくらの部屋に帰つたところ、太郎とRは押入れに入つて遊んでいた。部屋には布団が敷いてあつて布団に入り目を開けていたところ、太郎とRの二人は遊んでおり、Sが来たが太郎はかえらず、被告人が玄関の反対の方からやつて来て、太郎君おいでと入口に立つて言つた。太郎が被告人の後からついていつた。自分は戸のところまで見にいつて被告人らが玄関の反対の方にいくのを見た。しかしそのあと寝たので外へ出ていくのは見なかつた。」旨述べている。

49.4.8検では、右4.4員とほぼ同内容の供述をし、太郎が被告人に呼ばれて出ていく際の状況につき、「太郎は被告人の後からついて出ていつた。出ていくのを見た。」というのが新しい供述である。

49.4.14検では、被告人が来て太郎を呼び出したときの状況について、「その後被告人が玄関の反対の方向から来た。被告人を見てはいないが声で被告人だとわかつた。そして被告人が、太郎君おいで、と言つたので太郎が部屋から出ていつた。」と述べたほかは、従前どおりの供述内容である。

49.4.20検においては、被告人が太郎とともに廊下を歩いていた際の状況に関し、「被告人は太郎の手を引いておらず、被告人が前、その後に太郎がついて玄関の反対方向にいつた。」旨供述している。

49.5.21検(二通)では、イナズマンのビデオによりどの場面までテレビを見ていたかを確認した上、太郎とRの遊んでいた状況を述べ、更に「被告人が玄関の反対の方から廊下を歩いてきて、さくらの部屋の前の方から、太郎君おいで、と言つた。このとき目をつぶつていたので被告人の顔を見ていないが、足音が玄関の反対の方の廊下から聞こえてきて、それから太郎君を呼ぶ声が聞こえたので玄関の反対の方から来たとわかつたし、被告人であることは声でわかつた。それから太郎は私の枕もとを通つて廊下へ出ていつた。このときもまだ目をつぶつていたので姿は見なかつたが、足音で玄関の反対の方にいつたことがわかつた。」と述べ、被告人の服装につき「ぼたんの前の廊下を歩いているとき被告人はジーパンをはいていた。」と供述したのが新しい供述である。

49.5.29検では、「太郎はRと仲よしでいつも夕食が終つたら私達の部屋に遊びにきていたが、寝る時間になつたら自分で帰つていつていた。この日だけSが呼びにきた。そして太部は帰らなかつた。被告人が夜に太郎を連れてぼたんの部屋の前の方へ歩いていつているのを見たのはこの時一度だけである。」という供述がなされたほかは、従前の供述と変わつていない。

49.8.2員では、太郎と被告人の着衣につき、「事件当日の朝、松川先生に言われて太郎に青色毛糸セーターと黒ズボンをはかせた。スモックは着せていない。この日の夜太郎はさくらの部屋では青色毛糸セーターを着ていた。ズボンは朝着せたものと違うのをはいていたが、どんなズボンかわからない。この夜被告人は帽子のついた黒いオーバーを着ていた。その他にそのオーバーを着ている被告人を見たことはない。」旨の供述がなされている。

49.8.30検でも被告人と太郎の着衣に関する供述をしているが、その内容は、右8.2員での説明と同一である。

その後、52.5.5検では、被告人と太郎とが廊下を歩いていた際の二人の位置関係について、「被告人と太郎がぼたんの部屋の前を歩いているのを見たとき、太郎が先、被告人があとを歩いていた。」旨従来の供述を変更し、「戸を閉めて寝てから岡先生と西田先生が別々にさくらの部屋を捜しに来た。」「被告人以外の先生が太郎をさくらの部屋へ呼びに来たことは一度もなかつた。」旨の供述もしている。

また52.5.16検では、「Sが入つて来たとき自分は布団の中で目を開けていた。」という供述がある。

5M供述の問題点

(一) 検察官は、捜査段階におけるMの供述内容について、49.3.27捜復記載のものを除けば、その目撃状況の核心部分において変化がないのみならず、証人として証言した内容とも一致しており、変遷が認められないと主張する。

(二) ところで、昭和四九年三月二七日Mに対して行われた警察官の事情聴取は、関係者からの聞き込みの一環としてなされたものであり、その聴取の方法も、正式の取調べの場合とは異なり概括的な質問をなした程度であつて、復命書の内容も供述調書と違い要旨をまとめたにとどまるから、それ自体正確性に欠ける面のあることは否定し難い。

しかし、被告人がさくらの部屋で遊んでいた太郎に声をかけ、太郎が部屋を出ていつた旨の供述自体は、捜査官にとつてすこぶる重要な意味をもち、その後のMに対する取調べはもとより本件捜査の方針全般にまで無視できない影響を及ぼしたとうかがわれる。

すなわち、本件当日被告人がさくらの部屋にいる太郎を呼び出したという事実があり、その現場をMが目撃していたとすれば、捜査官としては、被告人が何らかの形で太郎殺害の犯行に関与している事情を解明する上で重要な手がかりを得られるとの期待をもつて、Mの口から更に詳細な供述を聞き出そうと意図したとしても、それが当然であろう。

その意味で、本件に関するMの供述の全体的な流れを通観するに当たつては、この3.27捜復についての検討をなおざりにすることができないと思われる。

ところで、右捜復の記載に徴すると、Mは被告人が太郎の手をつないで部屋から出ていつたことをさりげなく話したようにうかがわれるのであるが、その後49.4.3員では「女の先生が来た。」「顔は見ていない。」と述べるにとどまり、その翌日作成された4.4員では被告人の名をあかしているものの、4.4捜復に照らせば、Mから「女の先生」の名を聞き出すのにかなり時間をかけるなど取調官の苦心した経過を認めることができる。

そこで、あらためて3.27捜復の内容を検討してみると、さくらの部屋での出来事に関する状況説明(Mのほか、太郎、N、Rの計四名でトランプ遊びをしていた旨の説明)がその後のM供述との間で大きく異なつている点に注目しなければならない。これを具体的に言えば、Mは、49.4.4員以降「本件当夜イナズマンのテレビを少し見て眠くなつたのでさくらの部屋に帰つたところ、太郎とRが遊んでいたが、M自身は遊びに加わらず着がえをして布団に入つた。」という状況のもとで、その後の事態の推移(S、被告人らの来室と太郎呼び出し)を説明しているところ、これを3.27捜復の内容と比較すると、それぞれの供述の前提となつている場面の違いが顕著である。

この点に関連して、検察官も、Nが加わつてトランプをしていたという供述に関する限りは、Mが三月一七日の情況と一九日の情況とを混同して述べたか、あるいは、事情聴取にたずさわつた警察官が混同した可能性が濃厚であると主張している。しかしながら、更に進んで、3.27捜復に書かれている「被告人の太郎呼び出し」の供述が、三月一九日夜の出来事であるとの明確な認識のもとに話されたものか否か(すなわち、他の日時・場所での出来事と混同しているのではないか)が疑問ではあるまいか。だからこそ、三月一九日夜の出来事を聞かれていることがある程度明らかにされている4.3員、4.4員作成の段階では、Mが、自信をもつて被告人の来室に関する事実を述べるのに躊躇したのではなかろうか。M供述の信用性を吟味するに当たつては、右のような初期供述の疑問点を念頭におくことが必要であると思われる。

(三) そこで、以下においては、4.3員以降のMの供述経過に沿いながら、その問題点を検討することとする。

M供述のうち最も重要なのは、言うまでもなく、さくらの部屋で遊んでいる太郎を被告人が呼び出したという点に関する部分である。検察官の主張する本件犯行の一連の筋書きの中で、被告人が太郎を呼び出した前後の経過の核心部分を明らかにしているのはMのみであり、しかも、太郎呼び出しの事実に関する立証の成否如何が本件公訴事実の全般にわたる心証の形成に及ぼす影響は極めて大きいからである。

ところで、Mは、49.4.4員、4.8検において、被告人が太郎を呼び出す場面を「目で見た」と解される趣旨の供述をしていたのにかかわらず、4.14検以降、目では見ておらず声や足音で聞きわけた旨供述している。すなわち、被告人であることは声でわかつたし、被告人が部屋に来た方向や太郎を呼び出したあと被告人と太郎の二人が歩いていつた方向も足音で確認したというのである。

M供述に徴すると、テレビを見ている途中眠くなつたので部屋に帰り、パジャマに着がえたのち、室内の廊下側に敷いてあつた布団に入り、頭をディルーム側に向け顔は廊下側に向けて横になつたという経過はおおむね動かないところである。

そして、Mは、被告人が部屋に来て太郎に声をかけ呼び出したのを被告人の足音や声の特徴で確認したと述べる一方、目をつぶつたままで通したとの供述を貫いているのであるが、Mの寝ていた位置や顔の方向からすれば、目の前と言つてもよい位置に先生がいてその声で沢崎先生(被告人)だとわかりながら、目を開けて見ようともしなかつたというのは何としても不自然ではなかろうか。

Mは、一方において、「太郎がいなくなつた日のほかに、さくらの部屋にいる太郎を被告人が呼びに来たことはない。被告人以外の先生が太郎を呼びに来たことも一度もない。」と述べているのであり(もつとも、太郎のような年少組の園児が自室に戻つて就寝すべき時刻を過ぎているのにかかわらず、他の部屋で遊んでおれば、保母らがその園児を呼びにくるようなことは必ずしも珍しい出来事ではないと思われ、この点に関するM供述の信用性には疑問がある。)、しかも、被告人は当夜の宿直勤務の先生ではなかつたのであるから、Mが特段の関心も示さず目をつぶつたままに過ごしたというのは理解に苦しむ。Mの取調べにたずさわつた捜査官も、この点に疑問をいだかぬ筈はないと思われるが、その理由等を確かめた証跡が見当たらない。

しかも、太郎が呼び出されたのちには、目を開けて戸が開いたままであるのに気付き、起き上がつて戸を閉め、その際廊下上を歩いていく二人を目撃した、というMの供述とあわせ考えると、Mの対応ぶりは不自然なものとしか言いようがない。

少なくとも、Mが目を開けて被告人を見るという対応に出たとしても、当時のMにとつて何の不都合もなかつたことは明白である。仮りに不都合があるとすれば、誰にも気付かれぬように太郎を呼び出した上これに危害を加えようと企てていた犯人にとつて、思わざる障害と考えられるだけである。更に言えば、Mが目を開けて顔を見られている状況下で被告人が太郎呼び出しというような行動に出たとすれば、その主張するストーリーの出発点で重大な蹉跌(さてつ)に直面する捜査官が苦しい立場に追い込まれることだけは確かである。

次に、Mは、前記のように被告人の来た方向や、被告人とMとが歩いていく方向を足音で聞きわけた旨供述しているが、被告人の姿を目で確かめるなどごく自然な所作にも出ず、しかも眠気におそわれていたMが、耳をすまして足音に注意するほどの関心を示したというのも不可解ではなかろうか。しかも、Mは、捜査官に対する供述では、一貫して、被告人が玄関(ディルーム)とは反対の方向から来たのが足音でわかつた旨述べていたのに、証人尋問の際には、ディルームの方向からやつて来たと供述を変えている。このことに関して、検察官は、本件当夜の被告人はこすもすの部屋から青葉寮に侵入後、いつたんさくらの部屋の前を通過して女子棟保母室付近までいき、ディルームの様子をうかがつたあと、同所から引き返してさくらの部屋の前に来たと認められるので、Mは、玄関の反対方向から来た足音とディルームの方向から来た足音との両方を聞いていたものであり、昭和四九年当時供述していたのは最初に聞いた方向の足音で、証人尋問時に証言したのはあとから聞いた方向の足音を述べたものと解され、いずれも客観的な状況に合致する、と主張する。しかし、被告人の足取りにつき、検察官の主張するような往来があつたことを前提に考えても、Mは、被告人が玄関の反対の方からさくらの部屋を通過してディルーム方向までいき、再びさくらの部屋に戻つて来たとうかがわせるような供述を全くしていないのであるから、検察官主張の理由でMの供述変遷を合理的に説明するのは困難である。

(四) Mは、捜査段階において、Sが太郎を呼びに来た前後の状況につき、「Sが来た際、太郎はウ、ウとおこつて手をあげた。」「太郎は仮面ライダーのように手を振り上げて、いや、という風に言いSの言うことをきかなかつた。」(49.4.3員、52.5.5検等)と供述していた。ところが、証人尋問の際には、「Sが来たころ目をつぶつており、Sの行動は声や音でわかつた。太郎のことも見ていない。」旨述べており、この点でも、重要な供述の変遷が認められる。そして、このような供述の変更があるのに、その理由が明らかでないのも、前記の場合と同様である。

(五) 進んで、女子棟ぼたんの部屋の前付近を被告人と太郎が歩いているのを目撃した旨のM供述につき検討する。

この点に関して、Mが実際に本件当夜戸を閉めようとした際に被告人と太郎の二人の姿を目撃したのであれば、当然のことながらその際の二人の服装や後姿の特徴を認識し、これを記憶していなければならないと思われる。

そこで、被告人に関連する言及の内容を検討してみると、49.5.21検の段階では「ジーパンをはいていた。」旨述べていたのみであつたところ、49.8.2員作成の段階で「帽子のついた黒いオーバーを着ていた。」と供述し、52.6.3検では「パーマをかけていなかつた。髪の毛はえりのところまであつた。」旨詳細な供述をしている。

49.5.21検の作成に関与した樋口禎志検察官の証言に徴すると、同検察官は前記のようにジーパンをはいていたとの供述を得ることができたものの、上着に関する質問に対してはあいまいな答が返つて来たのみであるというのであつて、してみると、その後日時が経過し、ますます記憶がうすれると思われる時期になつて、逆に具体的で詳細な供述が出て来たというのはまことに不自然であると言わなければならない。当日の被告人の着衣の色・種類、そのころの被告人の毛髪の状況等は、いずれも捜査官がこれを知悉していたところであるから、当初あいまいであつたMの供述が事件後二か月強ないし三年強を経た段階で却つて具体性を帯びるに至つたことについては、取調担当者による誘導的な働きかけが影響したのではないか、と疑う余地の残るところである。

一方、Mが目撃したという被告人と太郎との位置関係についての供述に関しても、第一次捜査の当時には被告人が前を、太郎が後を歩いていた旨述べていたのにかかわらず、52.5.5検以降太郎が前、被告人が後であつたと供述を変えている。右の点についての供述変更の理由も証拠上明らかでないが、廊下上の二人の姿の目撃という供述が本件の証拠構造の中で占める重要性に照らせば、その供述変遷のもつ意味は決して軽いものとは考えられない。昭和四九年当時のM供述では、いかにも太郎が被告人の後に従つて歩いているような状況と解されるおそれがあるところから、ここでも取調官の意に沿う方向への供述変更が行われたとの疑問を払拭し難い。

(六)  ところで、証人尋問の際のMの対応ぶりを見ると、理由不明の沈黙や「忘れた。」「わからない。」という趣旨の答が極めて多く、当初は返答がなかつた事項について、後になつて証言している例も少なくない。しかも、被告人が太郎を呼び出した状況についての尋問との関係で、とくにこのような混乱が顕著にあらわれているのが特徴的である。

一般に、右のような証言態度は、証言を求められている事項についての証人の認識や記憶があいまいで、自信をもつた答え方のできない事実を示唆するものと言つてよい。

Mの場合、既に明らかにしたように、その供述内容自体が不自然・不合理であつたり、首肯するに足る事情がないのに重要な事項について無視できぬ供述の変遷が認められるなど、もともと信用性に弱点のあることを否定し難く、このような弱点が前記の証言態度としてあらわれたものと解される余地が少なくない。

証言当時一七、八歳の女性であつたMが、異議申立等訴訟関係人の意見の応酬で緊張感のたかまることの少なくない場面で、かなりの時間と回数にわたつて尋問を受けたという事情を考慮に入れても、Mの証言態度に見られる前記の特徴は、その証言の信ぴよう力を低めることを否定できない。

右のとおりであるから、Mの捜査段階の供述及び証言は、その信用性に重大な疑問があると言うべきである。

三Fの供述

1Fは、本件当時甲山学園に在園していた小学校五年生(一二歳)の園児であり、青葉寮男子棟くすの部屋を居室としていた。

Fは、昭和四九年、五〇年の第一次捜査段階では本件の中核にかかわる事項につき何ら言及するところがなかつたのにかかわらず、第二次捜査段階に入つてのちの昭和五二年五月七日、司法警察員の事情聴取に対し、本件当夜被告人が女子棟非常口から太郎を引きずり出す場面を目撃した旨の衝撃的な新供述を行つた園児である。

Mの供述が第一次捜査の当時重要な役割を果たしたのと対比し、Fの新供述は、第二次捜査の展開にとつて、Mのそれを遙かに上まわる枢要な内容を含むものであり、この新供述がなければ、おそらく被告人に対する再逮捕も本件公訴の提起もあり得なかつたと言つて過言ではなかろう。

2Fについては、昭和四九年三月二六日の警察官による事情聴取の結果を記載した49.3.26捜復をはじめ、昭和四九年四月二日から五〇年八月八日までの間検面調書一通、員面調書三通、捜復一通が作成されており、第二次捜査に入つてのちは、起訴後の分も含め、検面調書が一〇通、員面調書が八通、捜復・捜報二通、Fの説明に基づく実況見分調書一通が作られている。

一方、Fに対する証人尋問は、昭和五五年二月四日、五六年六月四日、六月二五日、七月一六日、九月一〇日及び一〇月八日の六回にわたり実施された。

3証言の内容

Fの期日外証人尋問における証言の内容は、あらまし次のとおりである。

「本件当夜、ディルームでイナズマンを見ているときに、Sが太郎をさくらの部屋に連れて行くのを見た後、父からの電話がかかつたので男子保母室へ行つた。電話を終えてからディルームに戻つてテレビを見た。イナズマンの予告編が終つてから男子棟便所へ行き、同所前でSと出会つて、同人から『太郎が帰らない。』ことを聞かされたので太郎を連れに行くべく女子棟の方へ行つたところ、女子保母室前付近に来たとき、女子棟廊下のぼたんの部屋の前あたりに被告人が太郎の背中を押すようにして非常口の方向に歩いているのが見え、こわかつたので女子便所に入つた。なおよく見ていると、太郎は非常口ドアの所まで行つたときその場にしやがみ込み、被告人が脇の下に両手を入れて太郎を立たせようとしたが太郎はいやがり、更に四つんばいになつてばらの部屋の前辺りまではつて来た。被告人は、太郎の後から歩いて来て太郎の両足首をつかんで非常口ドアの所まで下がつて行きドアを開けようとして太郎の片方の足を離した。すると太郎が被告人の顔をけつた。それから戸を開けて、被告人と太郎が出て行つた。戸はすぐしまつた。太郎が顔をけつたときに被告人の顔が見え、被告人に間違いない。ドアが閉まつた後すぐ非常口のドアのところに行き、ドアをさわつたが開かず、横の窓から外を見たり、女子棟洗面所の上へ上がつて横の窓から裏を見たが、暗くて見えなかつた。それからディルームの玄関の方を通つてくすの部屋に帰つた。寝間着に着替えて布団に入つた後、西田が太郎を捜しに来たが、もし言つたら被告人に太郎と同じように連れていかれると思つてこわかつたので、太郎が連れていかれるのを見たことは言わなかつた。」

4捜査段階での供述

まず、49.3.26捜復によれば、「太郎の不明について」と題する項で、「午後七時から八時ごろの間テレビを見ていた。太郎はMの部屋で、M、N、Rの四人で先生ごつこをしていた。自分は先生ごつこに加わらずテレビを見ていたが、時々見にいつた。午後八時ごろMの部屋にいくと太郎はいなかつた。パジャマを着ていたとき先生が、太郎ちやんがいなくなつた、と言つて懐中電灯を持ち押入れ・便所などを捜していた。その後は寝た。」という内容の供述が書かれている。

49.4.2員、4.11検の二通の調書では、Mの部屋での先生ごつこのメンバーが六人になつているほか、父親から電話のあつたこと、この電話の前には太郎がディルームにいるのを見たこと等が述べられており、「電話から戻つて来た際太郎はディルームにいなかつた。午後八時になつて部屋に帰り、同室のG、Iといつしよに寝た。自分が見かけた時の太郎は、薄茶地に白いたて縞のはいつた襟の大きいセーター、黒い長ズボンを着ていた。太郎がいなくなつたことは、翌二〇日の朝青葉寮のお姉さんに聞いて知つたが、何故いなくなつたのか、訳はわからない。」(49.4.2員)、「(電話のあとディルームに戻ると、太郎はおらず)、自分は寝る時間だつたので歯をみがいてすぐ寝た。自分が寝てから西田先生が自分の部屋等を捜していた。翌朝食事に行く際、太郎がいなくなつたことをHから聞いた。」(4.11検)旨の供述記載がある。

次いで、50.5.10捜復には、昭和五〇年五月七日Fの父親方でのFに対する事情聴取の状況、同月一〇日H・E及びFの三名を太郎の母親・丙川愛子方に集めて事情を聴取した際の状況が書かれている。これによると、Fは五月七日の事情聴取に対し、「自分は見ていないがHは知つていると思う。自分はHから『太郎は女子棟の廊下を歩いて出ていつた。』と聞いた。」旨供述したこと、五月一〇日の事情聴取の際、「FはHの記憶を呼び戻すように積極的にHを促していたが、Hは極めて慎重で甲山学園に関する質問に対しては事件との関係の有無にかかわらず、『知らない。』という言葉で回避する様子であつた。」こと等が記載されている。

50.8.8員は、被告人が警察から帰つてきた日に、Fが被告人に対して、「先生、太郎・花子ちやん殺したやろ」と言つたこと、西指導員にタイヤを持たされたこと等に関する供述を内容とするものである。

以上のように、Fは、第一次捜査段階において、本件当夜被告人が太郎を連れ出す場面を目撃したとうかがわせる何らの供述もしていなかつたものである。

ところで、Fは、昭和五二年五月七日の司法警察員による事情聴取に対し、本件当夜被告人が太郎を連れ出す状況を目撃した旨の新供述をなすに至つた。右の新供述を録取した52.5.7員は、以後のF供述の基本となるものであるから、その内容をやや詳しく紹介しておきたい。

Fは、右5.7員において、本件当日の夕食後、太郎がHに腕を持つてもらつて食堂から青葉寮に帰つたこと、その後くすの部屋で洗濯物を片付けてから、HやYらと自転車遊びをしたこと、午後六時三〇分ごろ保母室の先生に言われて自室に引き返し、布団を敷いたこと、その後まつの部屋へいつたところ、部屋の者が全部揃つておりSが太郎の布団を敷いてやつていたこと、それから、S、Tらとまつの部屋で遊んだのち、午後七時に始まるテレビ番組を見にいつたこと、その際太郎ひとりがまつの部屋に残つたこと、ディルームでは、Y、D、P、L、G、E、Bらがテレビを見ており、岡先生がLを抱つこして座つていたこと等を詳細に述べた上、父親からの電話以後のことにつき、大要次のように述べている。

「ディルームでテレビのイナズマンを見ていた際父親から電話があり、その後Sが太郎を連れてさくらの部屋に入つたのを見た。イナズマンが終わり自分の部屋に帰る途中、男子保母室前で女子棟の方から来たSと出会い、太郎がさくらの部屋から帰らないと聞かされ、太郎を呼びにいくため女子棟の方へいき、女子保母室の前まで来たところ、女子棟の一番端のゆりの部屋の前あたりで、女の人が太郎の背後から両肩を押して非常口方向に向かつているのを見た。太郎はいやがつて座り込み女の人は立たせようとしたが太郎は立たず、女の人は両足を持つて非常口の方に引つ張つた。このとき僕は女子便所のところに隠れて見ていると、女の人が沢崎先生であることがわかつた。沢崎先生が非常口のドアをあけて太郎の足を取つて外に出そうとしたところ、太郎君は先生を蹴るなどしたが、先生は太郎君の両足をにぎつて外にひきずり出し、ドアを閉めた。僕は非常口の近くの方までいつたが、外を見るのがこわかつたので自分の部屋に帰つた。布団の中に入つてうつ伏せになつていたところ、西田先生が太郎おらへんかと言つて来たが、知りませんと嘘をついた。」

そして、Fについては、52.5.7員を含め、その後一八通もの供述調書が作成されている。そこで、供述の変遷部分を中心に、その後の供述内容を概観する。

(一) Sが太郎をさくらの部屋に連れていくのを見た時期及びその前後の状況

52.5.7員では、「父親からの電話のあと、Sが太郎を連れて女子棟のさくらの部屋へいき、部屋へ入つた。僕は女子棟保母室の前付近でそれを見てディルームに戻りテレビを見た。Hもさくらの部屋で太郎やSらと遊んでいた。」旨述べ、

52.5.17員(三枚綴)では、「Sが太郎を連れていくのを見たのはイナズマンの一回目の変身のすぐあとで、父親からの電話の前である。電話のあとと言つていたのは勘違いだつた。Mの部屋をのぞいたことがあるかどうかは覚えていない。僕はイナズマンのテレビが映つていた間に、僕の部屋や男子保母室の前、男子トイレにいつたり、廊下をうろうろしていた。」旨述べ、

52.5.21検(一〇枚綴)では、「Sが太郎をMの部屋へ連れていつたのはイナズマンへ変身する前のことである。僕がMの部屋に入らないでディルームに帰つて来てから変身した。父親からの電話はディルームに戻つて来てからあとのこと。Sが太郎をMの部屋に連れていつたとき僕がその部屋に入らなかつたのは、部屋の中からHの声が聞こえたためである。Hは僕を投げ飛ばしたことがあり、僕はMの部屋で太郎らと遊びたかつたけれども、Hに何かやられると思い、部屋に入らなかつた。」旨を述べている。

(二) イナズマンが終わつて後のSとの出会いの状況

52.5.7員では、「自分の部屋に帰る途中、男子保母室前で女子棟の方から来たSと出会つた。Sは『太郎君はきけへんから。』と言つたので、僕はSに『そしたら先に帰つとけや。』と言い、太郎を呼びにさくらの部屋へいこうと思つた。」旨述べ、

52.5.11検(一三枚綴)では、「イナズマンを最後まで見てくすの部屋へ戻るためディルームから出た。男子便所に入つて小便をした。便所から出たときSがディルームの方から来たので出会つた。Sは『太郎君が帰らんと言うて、いうことを聞かない。』と言つてまつの方へいつた。太郎はMの部屋にいると思つたので、連れにいつてやろうと思い女子棟の方へいつた。」旨述べ、

52.5.17員(三枚綴)では、「(太郎がMの部屋から帰らないと)Sから聞いたのち、僕は男子トイレに入つて小便した。それから僕の部屋に帰つたと思う。すぐに出て太郎の部屋の中を見て太郎が帰つていなかつたのでディルームの方へいき、女子棟の保母室の前の方へいつた。」旨を述べている。

(三) 被告人の太郎連れ出しの目撃状況

52.5.7員では、「太郎がゆりの部屋の前の辺で非常口の方を向き、そのうしろから頭の袋つきの黒つぽいコートにパンタロンのようなズボン、右肩に黒ハンドバッグで靴をはいた女の人が太郎の両肩を持つて押していた。太郎はアンアンと声を出して座り込んだ。女の人は太郎の丸首セーターのうしろ襟首をつかんで立たせようとしたが、太郎はすぐ座り込んだ。女の人は前かがみになつて太郎の両足を持ち非常口の方へ引つ張つた。僕はこわかつたが、だれだろうと思い、その顔を見るために女子便所に隠れて見たら沢崎先生だつた。沢崎先生は非常口のドアを右まわりにしてあけ、先に外に出て太郎の足を取り外に出そうとしたところ、太郎は先生を蹴つて暴れた。それでも先生は太郎の両足をにぎつて外に引きずり出し、ドアの内側の鍵を中から押して外に出て閉めた。」旨述べ、

52.5.10員(一一枚綴)では、「女子棟廊下の入口から廊下を見たら、太郎が非常口の方へ向かいその後ろから大人の女の人が太郎を押しているのを見た。その女の人をよく見ると体つきや服から沢崎先生だと思つた。様子を見ようと思つたが、沢崎先生に見つかるのがこわかつたので女子便所に入つて顔だけ出して見た。先生は非常口をあけて外に出てかがんで太郎の両足を持つて外に引きずり出した。そのとき沢崎先生の顔をはつきりと見た。先生は太郎に顔を蹴られていたが、すぐに戸を閉めた。」旨述べ、

52.5.11検(一三枚綴)では、「女子保母室の戸の前あたりへ来たとき、廊下の奥の方で女の人が太郎のうしろから肩か背中を押して歩いていくのを見た。そのときはだれかわからず、どこかよその人かと思つた。前を歩いているのが太郎とわかつたのは青い毛糸の服を着ていたからである。その女の人がよその人かと思つたのでこわい気持になりすぐ女子便所に入り、ちよつと顔を出して廊下の奥の方を見ていた。奥の扉のところまでいき女の人が扉をあけた。太郎はディルームの方を向いて廊下に尻もちをついて座り込んだ。女の人が太郎のうしろから両方の脇の下に手を入れて立たせようとしたが、太郎はアンアンと言つていやがり、四つんばいになつてディルームの方へ逃げた。女の人が追いかけて来て太郎の両足の足首の辺をつかんだが、そのときの女の人の顔を見て沢崎先生とわかつた。太郎は廊下の奥の方へ引きずられていき、非常口の扉のところで沢崎先生の体を足で蹴つて暴れたが、体のどの辺を蹴つたのかはよくわからない。太郎は両足をつかまれたまま奥の扉のところから外へ引きずり出され、扉はすぐ閉められた。」旨述べ、

52.5.21検(一〇枚綴)では、「前に、太郎がディルームの方を向いて座り込んだと言つたのは、僕の勘違いで、太郎は非常口のドアの方を向いて尻もちをつき座り込んだ。」「太郎らが非常口のドアまで歩いていつたとき一度女の人がドアを開けたあとすぐ閉まるということがあつた。風で閉まつたのだと思う。」旨を述べている。

(四) その後のFの行動

52.5.7員では、「僕はその後すぐ非常口の近くの方にいつたが、外を見るのがこわくてディルームの方に帰つた。」旨述べ、

52.5.11検(一三枚綴)では、「僕は太郎がかわいそうになり、便所から出て奥の扉のところへいき外を見たが、太郎や沢崎先生は見えなかつた。くすの部屋へ戻ろうと思い、ディルームのところへ来ると、Hがディルームのうしろのいすに乗つて窓のところから外をじつと見ていた。それから僕はテレビのうしろ側を通つてくすの部屋へ戻つた。」旨を述べている。

5F供述の問題点

(一) Fの捜査段階での新供述及びその証言について、だれしもが抱く疑問は、本件発生以来前記のような目撃状況を全く供述していなかつたFが、何故三年以上も経過した時期に極めて唐突な形でその供述を始めたのか、という点であろう。この問題については、先に総括的考察の部分でも述べたところであり、重複のうらみがあるが、多少つけ加えておくこととする。

検察官は、西指導員や父親からの口止めや注意があつたために、Fがその供述をひかえていたところ、その後同人が甲山学園から他の施設に移り、西らの支配圏を離れて恐怖感もうすれ、父親から「知つていることは全部話せ。」と言われたりしたので、昭和五二年五月七日の司法警察員の事情聴取に際し、初めて目撃状況を明らかにしたものであると主張し、F自身も、検察官の主張に沿う趣旨の供述・証言をしている。

しかしながら、西にせよFの父親にしろ、Fが本件に関していかなる知識・情報を持ちあわせているのかを知らされていなかつたのであるから、そもそもFに対して口止めをしなければならぬ理由・必要が奈辺にあつたのか、理解に苦しむところである。

しかも、西の口止めの事実については、Fが漠然とした形でこれを供述・証言しているものの、具体的に、いつごろ、どのような事実について口止めされたのかが全く明らかでなく、検察官の主張を裏付けるような客観的証拠も見当たらない。

ところで、Fは、第一次捜査段階でも司法警察員や検察官による事情聴取・取調の際、目撃状況の供述はしていないものの、本件当夜の太郎の行動等についてそれなりに具体的な事実を述べているのであり、その供述内容の真否はともかく、本件に関連する事項の供述をことさら回避しようとしていたともうかがわれない。

一方、Fは昭和五〇年四月甲山学園から出石学園に移り、検察官主張のような圧力を受ける状態を離れたと思われるのにかかわらず、その後に行われた同年五月及び八月の事情聴取に際し、自ら目撃状況に関する供述をしないままに経過しているのであつて、このような事実に照らしても、検察官主張のごとき理由のためにFが目撃状況につき沈黙をつづけていたと解するのは困難である。

更に、本件当夜、太郎の姿が見当たらないのに気付いた西田指導員らが各園児の居室を捜しまわつていた際、Fが、口止め等の障害が問題となる余地のない状況下でありながら、その目撃事実を告げようともしなかつたことは既に述べたとおりであるが、この点のみを見ても、Fの新供述の信用性には重大な疑問があると言わなければならない。

(二) 本件の新供述は、特定の日の特定の時間帯における出来事を三年以上経過した時期に述べたものである。

このような条件の下での供述が、供述者自身の体験とその記憶に基づく真実の供述であるためには、そこに紛れ込んでくる雑多な夾雑物が排除されていなければならない。すなわち、長い年月の経過する中では、当然のことながら記憶がうすれ現実に体験したか否かあいまいな事実が出てくるであろう。しかし、一方では、一般的・日常的な知識として知つている事実があるため、特定の日時にも他の日時に体験したのと同様の出来事があつたのに違いないという錯覚、あるいは記憶の混同におちいり易い。更に、供述者は、供述をする時点までの間に、他人から聞いた話などによつて種々の情報を得ており、こうした情報の蓄積に基づいて、現実に体験した事実についての記憶の内容が潤色されたり、歪曲されることも稀れではない。しかも、供述時点でたくわえられている情報の内容・性質如何によつては、その情報に基づく推理や想像等に影響され、現実に体験しなかつた事実を体験したかのように思い込んだり、他の者に話してしまうということすら起こりかねない。

そこで、Fの新供述の信用性を検討するに当たつても、真実の供述を妨げる右のような夾雑物が十分に排除され尽くしているか否かを慎重に吟味しなければならない。

ところで、Fの新供述が最初に調書化された52.5.7員の内容は先に見たとおりであるが、そのうち、本件当日の夕食後テレビ視聴場面までの経過につき、極めて詳細な供述がなされていることに看過し難い特徴がある。

その内容は、昭和四九年当時の供述にもほとんど出ていなかつたもので、三年以上も前のごく日常的な出来事について、かくも事こまかに克明な記憶を保持していたとは到底考えられず、三月一九日夕食後の体験事実を正確に思い起こすという真摯な努力をはらつた上での供述と解するのは困難である。

そこには、通常であれば当然記憶に残つておらず、自信をもつて述べることのできない筈の事柄に関し、いかにもきめ細かな記憶を留めているかのように述べるという特色が端的に現れている。もちろん、ここで供述されている事柄は、それ自体直接に本件公訴事実の立証と結びつくものではないから、記憶喚起の手がかりとなる資料等の助けを借りながら述べたものであるとしても、とくに問題視する必要はないかも知れない。

しかし、少なくとも、昭和四九年三月一九日という特定の日の夕食後から二時間足らずの間に起こつた身辺の動静を、あたかも一両日前のことのようにありありと述べたとうかがわれる供述調書であることには変わりがなく、被告人の太郎連れ出しの目撃という重大な事実が右のような供述の延長線上で述べられている以上、軽々にこれを見過ごすことは許されない。被告人の太郎連れ出しの目撃状況に関するFの新供述と言われるものの中にも、自ら体験した事実についての正確な記憶と照合しながら真摯に供述するという姿勢の乏しいFの供述傾向が影響を与えていないと認められる保証はどこにもないからである。

一方、Fの証人尋問での対応ぶりを見ると、Fには、供述を求められる相手方、尋問事項等によつて、その証言態度に大きな違いの現れる傾向がうかがわれる。

すなわち、Fの証言状況に徴すると、検察官の主尋問に対してはかなり歯切れよく答えているのにかかわらず、弁護人の反対尋問に対しては、当然記憶している筈のこと、あるいは当然知つている筈のことでも、「覚えていない。」「知らない。」と答えてしまう特徴が看取される。

本件でのF証人の占める位置に照らせば、弁護人側としては、過去になされたFの捜査官に対する供述と証言内容との食い違いや矛盾点を指摘し、供述変遷の理由を問いただすという手法で反対尋問を行おうとするのが当然であろう。現に、弁護人側は、そういつた形での反対尋問を進めるため、その前提として、Fに対し、捜査官の取調べを受けた状況を明らかにする質問を投げかけているのであるが、Fは、この種の尋問につき頭から消極的な証言態度に出ているのである。

次に、Fは、昭和五〇年五月ごろの段階で、テレビや第三者から聞いた話などによつて、かなりの範囲にわたり、本件に関連する情報・知識をたくわえるに至つたとうかがわれることに留意しなければならない。

すなわち、50.8.8員、56.6.4証言によれば、Fは、テレビ報道等を通じて、被告人が太郎を殺害した犯人であり、事件の舞台が甲山学園の裏のマンホールであると信じ込んでいたとうかがわれるのである。更に、Fは、前記のように昭和五〇年五月一〇日Hらとともに丙川愛子方に集められ、事情聴取を受けたのであるが、その際、(1)Sが本件当夜太郎を呼びにいつたところ、太郎が自室に帰るのをいやがつたこと、(2)太郎がだれかのあとについて廊下を歩いていたこと、(3)太郎が夜ひとりで寮の外に出るような行動に出るとは考えられないこと等が話題に出たと認められる。そこで、Fは、こうした話題を通して、本件に関しそれなりの知識・情報を身につけたことがうかがわれるのである。してみると、これらの知識・情報がFの新供述に何らかの影響を与えたとの疑いを差しはさむ余地のあることを否定し難い。

前記のように、Fは、その証言において、被告人と太郎とが非常口の外へ出たあと、「ドアをさわつたが開かず、横の窓から外を見たり、女子棟洗面所の上へ上がつて横の窓から裏を見たが、暗くて見えなかつた。」旨述べている。ところで、「女子棟洗面所の上へ上がつて………裏を見」るという行動は、その場所的状況に照らして明らかなように、非常口の外へ出た二人が青葉寮の裏、すなわち、本件浄化槽の方向へいつたことを見抜いていたかのごとき動きである。

一方において「こわい」場面を見たと強調するFが、執拗なまでに二人の姿を追い求めたこと自体不自然のそしりを免れないが、異常とも言えるほど青葉寮裏にこだわつた行動に出ているという点にも奇異な印象を受ける。この点でも、本件浄化槽で事件が起こつたという知識・情報がその供述に影響を及ぼしているのではないかと疑われるのである。

(三)  Fの新供述と言われるものの内容が比較的短期間のうちに変遷していることは、先に具体的に紹介したとおりである。

ところで、F供述にあらわれる「太郎連れ出し」の場面は、実際にその述べているような出来事があり、Fがこれを目撃し、三年後になつて初めて供述したというのであれば、Fの記憶の中に固定化している筈の性質のものと考えられる。三年もの間だれにも話さず記憶の中だけにとどめていた事実について、Fがこれほど詳細に述べ得るということ自体異常であるが、その点はともかくとしても、固定化している筈の記憶がごく短い期間のうちに大きく変容しているのである。すなわち、52.5.7員と5.11検との間では、被告人が非常口のドアを開けた時期、太郎がアンアンといやがつた時期、太郎が座り込んだ時期の順序がいずれも違つており、「襟首をつかんで立たせた」のが「両方の脇の下に手を入れて立たせた」と変つている。

これだけでも顕著な供述変遷と言うことができるが、何としても見逃せないのは、太郎が四つんばいになつてディルームの方へ逃げ、これを追いかけて来た被告人が太郎の両足首の辺をつかみ、廊下の奥の方へ引きずつていつたという場面が5.11検に初めて登場していることである。5.11検に添付されている図面によれば、太郎は非常口とすれすれ位の場所に座り込んだのち、ばらの部屋の前辺りまで四つんばいになつて逃げ、そこで被告人に足をつかまれたことが示されている。

右のような状況は、Fが真実これを目撃したのであれば、動きの上での激しさという点で強く印象づけられる性質のものであるばかりでなく、女子便所からこつそりと盗み見しているFの方へ接近して来るという点でも衝撃的な出来事であるから、目撃状況の中で最も核心的な部分であり、深く記憶に刻み込まれていた筈の情景である。それにもかかわらず、Fが5.7員、5.10員でこの場面を何故述べなかつたのか理解に苦しむと言うほかない。

もし、Fが固定した記憶像に基づいて供述したというのであれば、右のような供述変転は到底起こり得ないものと言うべきである。

(四)  以上のように、本件の証拠構造の中で最も重要で中核的な位置を占めるFの新供述及びこれに沿う証言には、致命的な弱点があり、その信用性を肯定することは到底許されない。

四Sの供述

Sは、本件当時中学校三年生(一五歳)の甲山学園の園児であり、まつの部屋を居室としていた。

Sの第一次搜査段階での供述の要旨は、「本件当夜ディルームでイナズマンのテレビを見てから、まつの部屋に戻つたところ、太郎が部屋にいなかつたので、太郎を捜しにさくらの部屋へいつた。同室には、M、R、太郎がいて、太郎に声をかけたが帰らなかつたので、自分はまつの部屋に帰つて寝た。」というものである。

そして、Sは、第二次捜査段階にはいつてのち、52.5.11検及び5.21検において、「イナズマンのテレビの時に太郎をさくらの部屋に連れていつた」こと、「さくらの部屋へ太郎を呼びにいき、まつの部屋へ戻る途中でFと出会い、太郎が帰らないと話した」こと等を新たに述べている。この新たな供述は、もつぱらFの新供述の内容を補強するところに意味があると言えよう。

一方、Sの期日外証人尋問における証言は、主尋問に対し、Sがさくらの部屋へ太郎を連れていつたことが述べられていないものの、その余の点では、おおむね捜査段階での前記供述を維持する内容のものとなつている。

そこで、S供述の信用性について検討すると、Sの新たな供述は三年以上も以前の事柄に関してなされたものであるところ、その供述でとり上げられている内容は、長く記憶に刻みつけられるような印象的な出来事というには程遠く、したがつて、こうした供述が真にS自身の記憶を正確に呼び起こした上でなされたものか否かすこぶる疑わしいと言わなければならない。

検察官は、「それまで、これらの事実についての供述がなかつたのは、取調官が詳しく質問していなかつたため、Sもこの点についての供述をしなかつたに過ぎないものと認められる。」旨主張する。

しかしながら、49.4.9検、5.28検の記載等に徴すると、捜査官は、昭和四九年当時のSに対する取調べにおいて、さくらの部屋からまつの部屋へ帰る途中の道順やディルームで見た園児の名前を確かめるなど、まつの部屋へ戻る過程でSが見聞した事実に関心をいだいた上での具体的な質問をしていることが明らかであり、もしSがその際Fと出会い同人と言葉をかわしたと記憶していたのであれば、当然これを述べた筈であるのに、その供述が全く出ていないのである。

また、Sが太郎を呼び戻すためにどの部屋へいつたのかという点に関しても、「女の子の部屋を見にいつた。」(49.4.2員)、「皆の部屋を捜しにいつた。」(49.4.9検)、「女の子の部屋の方を見にいつたら、さくらの部屋に太郎がいた。」(49.5.28検)等の供述がなされており、もともと、「Sが太郎をさくらの部屋へ連れていつた。」(したがつて、Sは、太郎がさくらの部屋にいるのを知つていた。)という新供述の内容とは矛盾することが述べられていたのである。

してみると、検察官の主張とは逆に、取調官が詳しく質問していたのにかかわらず、Sは、新供述で明らかにしたような事実を述べていなかつたり、あるいは、これと矛盾する供述をしていたものと解するのが相当である。

更に、Sの新供述の出方という点で留意すべき点は、Fの新供述(52.5.7員)が現れた直後に、これと符節を合わせる供述が出ていることである。

これらの諸点にかんがみると、検察官の主張に沿うSの供述には、Fの新供述による影響が顕著であり、S自身の記憶の喚起に基づくとは考えられぬ難点があると言うべきである。

五Aの供述

Aは、本件当時中学校三年生(一五歳)の甲山学園の園児であり、いちようの部屋を居室としていたものである。

Aは、第一次捜査の当時、「本件当夜、ディルームでイナズマンを見、岡先生がいつたんテレビを切つたあと、またテレビをつけて歌番組を見た。そのころ岡先生からマーブルチョコをもらつた。歌番組を見ているとき西田先生がディルームに来て、岡先生に太郎がいないと言つた。その後自分は男子棟を捜したが、捜している際、ディルーム入口のところで、黒いオーバーを着た被告人を見た。」旨述べていた。

そして、第二次捜査の段階に入つてのち、「テレビのスイッチを入れてチャンネルをかえた時に、女子棟廊下洗面所付近に太郎が立つているのを見た。そのあとマーブルチョコを食べている時にFが女子棟廊下入口付近にいるのを見た。」旨新しい事実を述べ(53.3.7員)、更に、司法警察員の事情聴取に対し、「最初にFを見たあと、女子棟廊下の奥から三つ目位の部屋の前辺りに太郎が立つているのを見た。そして、その近くから大人の女がすうと消えたように思う。」と全く新しい内容の供述を行い(53.4.5捜復)、次いで、53.4.7検及び4.17検で「大人の女」が被告人であることを供述するとともに、「被告人と太郎が女子棟廊下のうめかさくらの部屋の前辺りを被告人が前、太郎がその後になつて女子棟非常口方向に歩いていた。」と供述したものである。

一方、Aは、期日外証人尋問において、「マーブルチョコを食べながら歌謡ビッグマッチを見ていた際、女子棟廊下を被告人と太郎が非常口の方へ歩いていくのを見た。太郎らの姿を見る前にFがディルームを通つて女子棟の方へ歩いていくのを見ている。太郎らの姿を見たあと、Fが女子棟の方から歩いて来たのを見ている。そのあと西田先生が太郎がおらんと言つて来た。」旨の証言をしている。

そこで、右のようなAの一連の供述経過を見ると、Aは、Fが女子棟の方へ行き来するのを目撃したことなど昭和四九年当時には一言も述べていなかつたのにかかわらず、昭和五三年三月、四月の段階になつて何故これらの事実を言い出したのか、その合理的な理由を見出だすことが到底困難である。

このことは、被告人と太郎についての目撃供述に関しても同様であり、もしAが実際にその証言する日時、場所で二人の姿を見ていたのであれば、その後間もなく西田指導員らが太郎を捜している際(A自身男子棟の部屋を見てまわるなどしておりながら)、自ら目撃したところを告げるのが自然であると思われるのに、そのような言動に出ていないことが不可解である。

結局のところ、Aの場合も、他の園児供述とひとしく、事件後四年も経過した時期に突如として新たな目撃状況を述べるに至つた事情につき首肯するに足る理由を認めることができず、A供述の信用性には重大な疑問があると言わなければならない。

六Kの供述

Kは本件当時一七歳で甲山学園に在園し、ぼたんの部屋を居室としていた。

Kの場合には、他の園児と同様、本件当夜被告人及び太郎を目撃した旨の供述が問題となるほか、三月一七日花子が浄化槽に転落した前後の状況、とくに、その現場近くに被告人が居合わせたことにかかわる供述も重要な意味をもち、後者は、本件犯行の動機に関する検察官の主張と密接な関連性を有し、第一次捜査当時の被告人の自白のうち動機に関する供述の信用性の判断に影響を及ぼすものである。

そこで、本件当夜に関するものと三月一七日に関するものとに分けた上で検討を進める。

1本件当夜に関する供述

(一) 捜査段階の供述

第一次捜査段階でのKは、「本件当夜ディルームで、テレビの歌番組を見てマーブルチョコを食べたころに、被告人の姿を見た。」旨供述していた(もつとも、被告人を目撃した時期については、かなりの動揺がある。)。

その後第二次捜査段階でのK供述は、

「女子保母室の前辺りにいた被告人は、それから女子棟廊下をディルームと反対の方向へ歩いていつた。もう一回被告人の姿を見ている。その時のことを覚えているが、言えない。」(52.4.23検)

「西田先生がディルームのところへ、太郎がいない、と言って来た。それは保母室前の被告人を見たあとのこと。」(52.5.14検)

「太郎がいなくなつた晩被告人を見たのは一回だけ。」(52.12.6検)

「女子保母室横の廊下にいる被告人を見たが、被告人はすぐにいなくなったものではなく、私らの方を見ていた。ぼたんの部屋へいこうと思い、女子棟廊下のところまで来た際、被告人がぼたんの前の廊下にいるのを見た。太郎と一緒にいた。これを見た時、自分はロッカールームと女子保母室との間の廊下にいた。女子便所にいくとFがいた。」(53.3.13検)

「女子保母室横の廊下にいる被告人を見た。顔が見えたし、顔の前の毛も見えた。黒い服を着ていた。被告人はそれからディルームと反対の方向へいつたが、仕分室とさくらの部屋の間辺りで姿が見えなくなつた。その後テレビの歌番組を見たが、小便に行きたくなり、女子棟廊下にいつたところ被告人と太郎を見た。二人は、ぼたんの部屋の前の廊下にいた。自分が女子保母室前の廊下から女子便所へ歩いていく時二人の姿を見た。女子便所でFを見た。」(53.3.15検)

と新しい事実が供述されている。

(二) 証言の内容

Kは、本件当夜ディルームでマーブルチョコレートを食べている時、「自分の知っている女の人を見た。」と証言するが、「名前は忘れた。」「子供である。」旨の応答がある。

なお、ディルームにいた際、被告人が女子棟廊下のさくらの部屋とうめの部屋のところに一人でいるのを見た趣旨の証言をしているものの、自分が便所へいつた際廊下には人はおらず、女子便所にはだれもいなかつた旨述べ、この晩被告人を見たのは一回だけ、としている。

(三) 本件当夜に関するK供述の問題点

Kは、第一次捜査の段階で、本件当夜テレビを見ている際に被告人の姿を目撃した趣旨の供述をしているのであるが、「西田先生が太郎がいないと言いに来る」前に見たのか、その後で目撃したのか、目撃の時期についての供述に動揺がある。

49.4.11員の当時には、「被告人(を見たのは)、太郎がいなくなる前か後か忘れた。」旨述べていたが、49.6.19員のころには、「被告人を見たのは太郎がおらなくなる前。」となつており、被告人を目撃した時期が次第に明確化されている。このように、当初あいまいであつた供述が日時の経過にともなつて明確な供述となるについては、当然それなりの合理的な理由がある筈である。ところが、少なくともK自身の供述においては、首肯し得る理由が明らかにされていない。

そして、第二次捜査段階で作成されているKの捜査官に対する供述調書の内容を見ると、捜査官の側では、Kが最初に被告人の姿を見たのは西田指導員から太郎の所在不明の話を聞く前であつたことを不動の前提であるかのように決めつけ、更にもう一回被告人の姿を目撃しているのではないか、との追及を重ねた経過が明らかに看取される。

こうした経過ののち、53.3.13検では、被告人と太郎とがぼたんの前の廊下にいるのを見たこと、女子便所にいくとFがいたこと等の供述が出た、とされている。

しかしながら、事件後四年も経過した時期になつて、右のような供述が現れたというのは何としても奇異な印象を与える。しかも、このK供述は、見事なまでにFの新供述と符合しているのであるが、これによれば、KとFはほぼ同じ位置から同時に被告人と太郎を目撃していることとなり、してみるとKとFとは互いに相手の姿を認めあつていなければならない筈である。ところが、二人の供述には互いに認めあつたことをうかがわせる供述が全くない。また、Kは女子便所でFと出会つた趣旨の供述をしているのに対し、F供述にはこれと見合う事実が全く出ていない。

右のように、Kの捜査段階での供述には、あまりにも多くの疑問点があり、これを信用するのは到底困難であつて、Kがその証言において、捜査段階の供述をくつがえしたのも当然と言わなければならない。

2三月一七日関係の供述

(一) 捜査段階の供述

Kは、第一次捜査の当時、花子の浄化槽転落にかかわりをもつような事実を全く述べていなかつたのであるが、52.6.20員で始めて、「三月一七日、午後のおやつを食べてだいぶしてから、青葉寮裏の洗濯物干場へいつたところ、花子、I、太郎が浄化槽のコンクリートの上に乗つて遊んでいた。後からCちやんが来て四人で遊んでいた。この時マンホールのフタが開いており、自分は、遊んだらあかんと言いにいつた。」旨、浄化槽で花子が遊んでいた状況に触れている。

その後、52.7.18員、52.12.6検、53.3.16検で花子転落時の状況を述べるに至つたものであるが、その要旨は、「当日、おやつを食べてだいぶしてから、物干場へ行くと、花子のほか、Cちやん、I、太郎がマンホールのコンクリートのまわりを走つて遊んでいた。被告人は青葉寮裏のディルーム西端の付近にいた。自分を含め全員がコンクリートの上に上がり、自分はマンホールのフタを全部開けた。花子はそこから中へ足から落ちた。穴から中をのぞくと、花子の髪の毛と赤い服が見え、ちよつとバタバタしていた。それから自分はコンクリートの上から降りてグランドの方へ行つた。フタは閉めなかつた。被告人はマンホールのそばへ来なかつた。」というものである。

(二) 証言の内容

Kは、期日外証人尋問において、花子がマンホールの中に転落した事実までの経緯は供述したものの、その場に被告人がいたかどうかの点については、否定的な証言をし、なお、マンホールのフタは自分が閉めた旨供述をしている。

(三) 三月一七日関係のK供述の問題点

Kは、第二次捜査段階に及んで、それまで述べていなかつた花子転落にかかわる供述をしたものである。

ところで、他の園児証人の場合の新供述はいずれも「被告人と太郎が女子棟廊下にいるのを見たか否か」という目撃状況に関するものであつたのとは異なり、三月一七日関係のKの新供述及び証言は、K自身がマンホールのフタを開け、花子転落後、マンホールの中をのぞきこみ、花子がバタバタしているのや花子の髪の毛を見たこと(更には、自分でマンホールのフタを閉めたこと)等、Kにとつては自己に不利益で言いたくない自らの行動を述べているものである上、体験したことがなければ言えないような生々しさをそなえており、一緒に遊んでいた園児の動きについても具体的な状況の叙述があること、事柄の性質上、Kの記憶に深く刻み込まれる類の印象的・衝撃的な出来事を述べていること等に徴し、その信用性は高いものと評価できる。

一方、その場に被告人が居合わせたか否かという点に関する供述を見ると、被告人がもし転落の事実を現場で知り得る状況にあつたとすれば、少なくとも、そのまま無言で立ちつくすとは考えられず、何らかの対応を示した筈であると思われるのに、捜査段階でのK供述には、このような被告人の対応をうかがわせる事実が述べられておらず、単に、「被告人はマンホールのそばへ来なかつた。」というだけであり、K供述の中で被告人に関する点のみ具体性・写実性を欠き、その内容も不自然である。

このような事情に加え、Kは、その証言において右転落現場に被告人が居合わせた事実を否定する趣旨の応答をしていること等を考えあわせると、被告人が花子転落時の経緯を見聞できる立場にあつたかのように述べるKの捜査段階の供述は、これを信用するのが困難であると言わなければならない。

第七  自白調書の信用性について

一はじめに

被告人は、昭和四九年四月七日本件殺人の犯罪事実によつて逮捕され、同月二八日処分保留のまま釈放されるまでの間、司法警察員及び検察官の取調べを受け、員面調書一八通、検面調書八通が作成されている。

また、被告人は昭和五三年二月二七日再逮捕されたのち検察官の取調べを受けたが、否認・黙秘を貫き、被疑者調書は一通も作成されていない。

第一次捜査段階で身柄を拘束された被告人は、連日にわたり長時間の取調べを受けたものの、この間に作成された供述調書のうち、「自白」調書と呼べるのは、49.4.17員、4.18員、4.19員(検272号)、4.20員、4.21員の計五通をかぞえるに過ぎない。そして、取調べのため相当の時間が注ぎこまれながら、自白調書の内容は、極めて断片的・概括的で、これを「自白」と言つてよいのだろうか、躊いを覚える程である。

しかしながら、被告人と公訴事実とを結び付ける客観的・決定的な証拠のない本件では、たとえ内容の乏しい不完全かつあいまいな自白であつても、検察官の主張の骨格が第一次捜査段階での被告人の司法警察員に対する自白に依拠している以上、これら自白調書の信用性につきある程度突つ込んだ検討をしておく必要があろう。

そこで、以下、被告人の供述状況を概観したのち、取調べの経過・状況に見られる問題点を明らかにし、犯行の動機・犯行の状況等に関する被告人の自白の信用性を検討することとしたい。

二被告人の供述状況の概要

被告人は、逮捕されて以降、犯行否認の供述をつづけていたが、昭和四九年四月一四日「無意識の間に太郎を殺してしまつたような気がする。」旨特異な供述をしている。

その内容は、次のとおりである。

「私はいま いろいろ考えておりますが、気持が動揺して、正確なこと(を)はつきり思い出しません。一九日夜、園長先生が帰られてから、青葉寮のトイレを借りにいつたと申しておりましたが、この正門玄関から入ると、すぐ子供達が気が付いて、『沢崎先生や、悦子先生や。』という筈です。そういうことから考えてみると、私は青葉寮のトイレを借りに正門玄関から入つておらないことが判りました。ほかの場所から入つたことについては、思い出そうといくら焦つても思い出しません。この一五分間ぐらいの間の記憶は、どうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちようど太郎君が連れ出されたことになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだに、太郎君を殺つてしまつたような気がいたします。

子供達は清純で天真らんまんです。嘘をいうとは思いません。私が太郎君を連れ出したのを見ている子供があれば、それは本当のことだと思います。そういうことから考えて、私が何時の間にか殺つてしまつたと思うのです。私は意識がはつきりしておれば、若し太郎を殺つておれば、その事実をありのままにお話ししたいと思いますが、そのことがどうしても思い出しません。私は過去に物忘れをしたりしてまたは突飛な行動をしたりして、人に笑われたような記憶もありません。また病院に入院したこともありません。」

そして、四月一七日に至り、

「今夜は本当のことを申し上げます。花子ちやんと太郎君をやつたことは私に間違いありません。その理由については明日朝から申し上げます。私が本当のことをいう気持になつたのは、花子ちやんと太郎君があのマンホールのつめたい中でどんなに苦しんだかこわかつたか、その苦しみを考えるときに私の苦しみなどはそれにくらべるとなんでもありません。ですから今夜は勇気を出して思い切つて申し上げました。」

旨初めて犯行を認める趣旨の供述をしている。

次いで、翌一八日の午前中は「太郎を殺す理由を話すと言つていたが、殺していないから理由を話すことはできない。」と否認に転じ、同日夕方からの調べに対し、

「私は、うすぼんやりと憶えていますが、青葉寮に入つたのは女子棟の子供の部屋から入りました。洗濯仕分け室の方から三つ目の部屋でした。靴を履いて上つたのか、脱いで上つたか憶えておりません。子供は確かにおりましたが、だれだつたか、寝ていたか起きていたか、二、三人だつたか憶えておりません。私はそれから、いつたん廊下へ出て、非常口(東)の方へ歩いていきました。いま非常口へ歩いていつたと言いましたが、私の思い違いで、ディルームの方へ歩いていきました。Rちやんの部屋まで来ると太郎君が鬼ごつこをしておりましたので、『たろう』と声をかけました。太郎君の鬼ごつこの相手は憶えておりません。ほかにだれかが居つたのか、それも判りません。私は確か部屋の中を一歩踏み入れて『たろう』と声をかけた感じがします。それからもと来た方へバックしました。はつきり断言できませんが、私の右手で太郎君の手をひき真すぐつき当つた東非常口から外へ出ました。非常口の扉はいつも鍵がかけてありますので、マスターキーで私が開けて外へ出たような気がします。」

旨、犯行の動機・理由にはいつさい触れていないものの、犯行の荒筋を認める趣旨の供述をしている。

ところが、翌日一九日には、

「昨晩作成してもらつた調書、その前の晩に作成してもらいました調書について別に取消そうとは思つておりません。今日からは動機などについて聞かれると思いますが、私はやつたことはありませんので、そのような動機などについてしやべれる筈はありません。判りません。思い出せません。

私は警察の人達が真心のこもつた捜査(を)していただいたり、取調べをしていただくことを大変嬉しく思います。全然恨んではおりません。

警察で調べられて揃つていつた証拠は全部私に不利です。ですから、もういいです。私の真心はだれにも判つていただけません。ですから、もういいです。」(検271号)

旨否認したものの、そのあと再度の取調べに基づいて作成された供述調書では、

「一七日の夜、太郎君と花子ちやんを殺しました、と申しました。それは本当のことです。いろいろのことを思い出しましたので、お話をします。

(三月)一七日花子ちやんのことについて、先に申します。一七日夕方、食堂で夕飯の配膳をしたとき花子ちやんのいないこと(に)気付き、青葉寮へ捜しにいきF君に声をかけたことまで話しております。花子ちやんはお腹のすいたときは、一人で食堂にやつてきますが、ふだんは捜しに行かないとなかなかやつてきません。その日は、花子ちやんを捜すため行つたのです。ほかの子(は)呼ばなくてもきちんと来てくれます。

○×(F)に声をかけてから、女子棟の方を捜しましたが、花子ちやんの部屋にもおらないので、浄化槽の方を捜しに行きました。

花子ちやんは浄化槽の付近でよく草むしりをする子であつたので、多分浄化槽の付近だと思つて捜しにいつたのです。私が東の用務員室の方から回つて青葉寮の裏の方にいきますと、花子ちやんが浄化槽の上で遊んでおりました。私が『ハナコ』と声をかけると、花子が立ち上つたとたん、よろけて突然姿が見えなくなりました。私はあわてて走つていつて見ますと、浄化槽のふたが開いており、その中へ花子ちやんが落ちたということが判りました。のぞき込んで花子ちやんを捜しましたが、花ちやんが見付からないので、これは大変なことになつた、自分の当直のときの責任になる、と考えました。

西先生に連絡しようとも思いましたが、私が一人居つたときの当直中のことでしたから、責任を感じました。それで、ついふたをしてしまつたのです。

私は悩みました。そして、私の責任をカモフラージュするために、ほかの当直中の人の時に事故が起きたら自分が助かると思いました。それで、一九日の日に太郎君をマンホールに入れて、殺してしまったのです。

私は一五分間の行動を思い出しませんと言つておりましたが、今日取調べを受けて本当のことを話す決心がつきました。

一九日午後八時前に事務室を出て、青葉寮の女子棟の仕分室から三つ目の部屋に上り、廊下に出て、ディルームの方へ歩いていきました。Rちやんの部屋で目についたのが太郎君です。目についた太郎君を『たろうくん』と呼び、非常口の扉から外に出て、手を引いていき、マンホールのふたをあけ太郎君をマンホールへ入れたのです。太郎君の繊維はそのときに付いたものと思います。それは警察から付いていることを聞いております。

今日は太郎君の命日です。心から太郎君の冥福を祈つております。」(検272号)旨の供述をしている。

さらに、翌二〇日には、

「(三月)一九日午後八時ごろ、丙川太郎君を青葉寮裏のマンホールに投げ込み殺したことについては昨晩も申しましたが、そのとおりです。引続いてもう一度記憶を呼びさまし、そのときのことを申します。

一七日私の宿直中に丁川花子ちやんが行方不明になりそれが原因で多数の職員、警察官がその捜索に来て大騒ぎになり非常に責任を感じていたのと、花子ちやんを他の者に私が殺したと思われはしないかと思い、そのことから他の宿直のときでも事故があれば、いくらか私の責任は軽くなる、いわばカモフラージュするという浅はかな考えから、太郎君をひどい目に合わせてしまつたのです。

一九日午後七時三〇分ごろ花子ちやんの捜索ビラ配りから帰り事務所に入りました。伊丹から買つてきたミカン、パン等のおやつを机上に出し、午後八時ごろミカンを持つて当時花子ちやんの対策本部にしていた若葉寮へいきました。

若葉寮を出てから私の不注意でたくさんの人に迷惑をかけたという自責の念でいつぱいになり、そのことは終始脳裏から離れないまま、グランドを通つて青葉寮へ行つたのです。

青葉寮には何処から入つたかよく思い出せないのですが、女子棟の仕分室から三つ目の部屋あたりから入つたと思います。そのとき、私は何を履いていたかこれもよく思い出せないのですが、たぶん靴(赤茶の底全体が高くなつたもの)のままで入つたと思います。

そして、保母室側から女子室のさくら、梅、こすもすの前を通つている時たぶん平素から仲の良いRちやんのさくらの部屋で遊んでいたと思う太郎君を見て『たろう』と呼びました。

太郎を見た瞬間カモフラージュするためにはこの子をマンホールに投げ込み殺そうと思ったのです。最初から太郎君を目的で来たのではありません。そのときの太郎君の服装については思い出せません。

(問・このときおやつに買つて来た食品を太郎にやつたことはないか。)おやつは前にも申しあげたとおりミカン、パン、サンドイッチ等を買つてきて、そのうち若葉寮にミカンを持つていきましたが、青葉寮に来るときは何も持つていなかつたと思います。そして太郎君にも食べものを与えた記憶はありません。

出て来た太郎の手を引いて長い廊下を通つたことは憶えております。このことから考えて、確かに女子棟の非常口へいき、持つていたマスターキーで戸を開けて外へ出たのです。

(中略)そしてそこから太郎君の前の方から両脇を抱えるようにして抱きあげて青葉寮の裏へ回り浄化槽のところへいきました。なにしろ恐ろしいことをしたのですしこの辺の詳しい事情についてははつきり思い出すことはできません。ともかく太郎君を一度降ろしておいてマンホールのふたを開け、再び前から両脇を抱くように抱え上げ太郎君の足から浄化槽の中へ落しました。汚水の溜つている浄化槽内に落せば当然死ぬことは判つています。そして鉄ぶたを閉めましたが鉄ぶたがどんなものであつたかも良く憶えません。

こうして太郎君を連れ出しマンホールに投げ込んでからその後管理棟の方へ引き返しました。そうしたとき青葉寮から管理棟の方へ向つて来る岡先生に会い、太郎がいなくなつたことを聞いたのです。」

旨供述している。

そして、その翌日の四月二一日には、

「三月一九日午後八時ごろ丙川太郎君をマンホールに投げ込み殺したということについては間違いないと思います。

そのことについて、まだもう少し思い出さないところがありますので、検事さんに申しあげるのは、はつきり気持を整理してからにいたします。

昨日申しあげたうち、三月一九日私が阪急伊丹駅高架下のショッピングセンター内でおやつとして買つたミカン一袋(一〇個ぐらい入つていた)を午後七時三〇分ごろ管理棟の事務室に持つて帰り、机の上に置きました。西先生がミカンを食べていたのは知つております。私も食べたように思いますが、おはぎははつきり食べた記憶はあります。午後八時前ごろ買つて来たミカン三、四個ぐらいを若葉寮に持つていつてやりました。

その際事務所で食べさしのミカンを持つてきており、それを持つて次に青葉寮へ行つたのです。

このときの私の服装は外出着の黒フード付オーバー、Gパンチャック付、赤茶色底全体が高くなつた靴姿であります。食べさしのミカンはオーバーのポケットに入れた憶えはないので手に持つていたと思います。

グランドを通り、たぶん丁川花子ちやんの部屋のグランド側から土足のまま入りました。昨日も申しあげたとおり、女子室仕分け室にいたるさくら、うめの部屋前廊下を歩いているとき、Rちやん、Mちやんの部屋に太郎君がいたので、タロウおいで、と呼びました。

たしかMちやんが見ていたように思います。Mちやんは、寝ていたのかどうしておつたのかは憶えておりません。ただ太郎君はRちやんと仲良しでよくその部屋にいるので、私が太郎君を連れ出したとき、見ているとすればMちやんしかいないと思います。

太郎君を呼んですぐ手に持つていたミカンをやつたように思います。」

旨述べるにとどまり、翌二二日からは再び完全な否認となつたものである。

なお、四月二六日の取調べの際、

「問 前の取調べのとき『子供に見られたとしたらだれに見られたのですか』と質問したところ、あなたは『Mちやん』と答えました。Mちやんに太郎君を呼び出すところを見られたのではありませんか。

答 いいえ察しがつくだけです。

問 どういう察しがつくのですか。

答 取調官から『太郎君が、あるところで鬼ごつこをして遊んでいた。』と言われていましたので、それであれば、太郎君はRちやんと仲良しですから、たぶん、さくらのRちゃんの部屋で遊んでおったという想像がつきます。だから、その部屋にはMちやんRちやんの二人だけですから、見たというならMちやんと思つて、そのように返事をしたのであります。」

旨のやりとりが供述調書の記載として残つており(検276号)、自白の動機について、

「取調官から、父が面会に来たあとに大きい嘆息をついたと聞かされました。また西先生が、女のやつた仕業ではなかろうか、と言つていることも聞き、私の信頼する人達が信頼もしてくれないと思うと残念で、やけ気味になつて、つい『殺つた』と自供したものです。」

旨述べている。

右に概観した被告人の捜査官に対する供述を総括すると、短時日のうちに自白・否認を繰り返すなど供述の変転ぶりが顕著であること、その自白の内容が断片的・概括的で不完全なものに過ぎないこと等の特徴を示しており、自白の信用性に疑問をいだかせる事情の少なくないことが明らかである。

三取調べ状況に見られる問題点

1被告人の取調べにたずさわつた山崎警視、勝警部補の各証言及び被告人の公判供述によつてうかがわれるように、被告人に対する警察官の取調べは、ほぼ常時三名の警察官が在室するという状況下で、ほとんど一日の休みもなく、午前九時ごろから午後一〇時ごろ(おそい時には午後一一時を過ぎている。)まで、連日長時間にわたつて行われており、その途中で、休憩あるいは食事等のため取調べが中断されたことはあるものの、その間も、被告人は取調べ室にとどまつたままである場合がむしろ常態であり、このような取調べの状況に徴すると、被告人が精神的な重圧から解放される余裕を十分に与えられていたとは到底考えられないのである。

2ところで、被告人は、三月一九日の午後七時三〇分ごろ以降の自己の行動につき、公判廷での被告人質問に対しおおむね次のような供述をしている。

すなわち、花子捜索のためのビラ配布等の活動を終え、午後七時半ごろ西指導員とともに学園に戻り、西や多田保母といつしよに管理棟事務室に入つた。事務室には荒木園長がおり、被告人が買つてきたパン、ミカン、園長が用意しておいたおはぎ等を、お茶を飲みながら食べた。事務室内では、お花の先生への電話、大阪放送の重役宅への電話、同放送の担当者への電話、F・Iの父親からの電話、ボランティアとの電話等があり、ボランティアとの電話のあと、荒木園長が花子の捜索に力を貸してもらうため、同女の写真を持つて神戸に出向くこととなつた。一方、職員らによる花子捜索の状況を整理した捜索表を作つておこうという話となり、多田保母が若葉寮に赴き糊を借りてきた。そして、被告人は、青葉寮の宿直職員らにおやつが要らないかを聞きにいこうと管理棟の裏出口から外に出ようとした際、岡保母と出会い、太郎の行方不明の事実を聞いた、というのである。

右のような被告人の公判供述をそのまま信用し得るか否かはともかく、前記山崎及び勝の各証言及び被告人の員面調書の供述記載に照らすと、取調官は、被告人が太郎を殺害した犯人である以上、太郎の行方不明が確認される以前に、管理棟の事務室から出ていかなければならないとの前提に立ち、F電話(捜査官は、当時、Fの父親に対する事情聴取等の結果により、午後七時四〇分ごろ右電話がかかつてきたものと判断していた。)以後午後八時ごろまでの被告人の行動につき、取調官の納得できる説明をするよう繰り返し供述を求めたことが明らかである。

ところが、被告人は(取調官らの発言に基づき、F電話の後に電話のやりとりがあつたか否か記憶の混乱を来たした事情も手伝い)、右追及に対し取調官を満足させるだけの説明をなし得ず、しかも、「嘘を言う筈のない」園児の中に、被告人が太郎を連れ出すのを見たと述べている者があると告げられ、その他、被告人が疑わしいと思われる証拠が揃つている旨を突き付けられる等、文字どおり追い詰められた状態に陥つていつた経過がうかがわれるのである。

こうした取調べの状況を如実に示しているのが、「無意識のあいだに太郎君を殺つてしまつたような気がいたします。」旨の特異な供述と言つてよい。

3さらに、関係証拠によつて明らかなごとく、被告人は、四月一七日の午後四時四〇分ごろから約三〇分間、父親との面会を認められている。そして、取調官は、前記検276号の被告人調書にもあるとおり、面会後父親が「大きい嘆息をついた」こと、学園の職員も次第に被告人を疑う雰囲気となりつつあること等、被告人を絶望的な心理状態に追い込む話題をもち出した事実が認められる。被告人がはじめて本件犯行を認める趣旨の供述をした4.17員は、右のような経緯と状況のもとで作成されたものである。この点は、被告人の自白の信用性を検討するに当たり留意を要するところである。

しかし、いつたん自白した被告人も、翌一八日午前の取調べに際し、再び否認に転じたのみならず、4.19員においては、犯行を否認しながら、「もういいです。」とすべてを諦め切つたかのように解される供述をしており、当時の被告人の混乱した状況が示されている。

4以上のような取調べの状況に照らすと、被告人は、一方において、本件当夜のF電話以後の時間帯での行動につき克明な供述を要求され、他方、被告人が太郎を連れ出すのを目撃した園児がいるなど被告人に不利な証拠が揃つている以上、父親や学園の関係者までが被告人を疑つているかのように示唆され、次第に絶望的な心理状態に追い込まれた経過をうかがうことができる。

このような経緯にかんがみると、被告人の自白の信用性を判断するについては、極めて慎重でなければならないことが明白であろう。

四犯行の動機に関する供述について

もともと、犯行の動機は、故意・目的など構成要件の主観点要素や犯行当時の責任能力等の面で立証のテーマとなる場合が多いのであるが、犯罪行為それ自体の立証という面でも重要性をもつ場合が少なくない。観念的には動機のない犯罪というものもないわけではないが、実際上は極めて例外的で稀有なことであるから、合理的な動機の存否如何がひいては犯罪行為そのものの存否を推認する上で重要な意味をもつこととなるのである。

もちろん、動機を確定しなくとも犯罪の成立を認め得ることは言うまでもないにせよ、自白あるいは間接証拠たる外部的諸情況により、首肯し得る動機が証明されない場合には、犯罪行為の外形的事実がよほど明確でない限り、犯罪行為の存在について合理的な疑問をもたらすこともあり得るのである。

本件の場合、被告人は精神薄弱児施設の甲山学園で保母として勤務し、園児の介護にたずさわつていた者であり、被害者とされている太郎は同学園に収容されていた児童であるから、客観的な外形事実のみを見る限り、被告人が太郎を殺害する動機を推測させるような事情は見当たらず、更に、犯罪事実そのものが極めて明白な事案でもない。従つて、本件では、首肯するに足る動機の証明が尽くされているか否かが有罪・無罪の判断に決定的な影響を及ぼさずにはおかないと言うことができる。

ところで、被告人の動機供述に関して、第一に問題となるのは、仮に被告人が自供するとおり、花子転落の現場を目撃する機会があつたとしても、同女を助けようともせず、マンホールのふたを閉めてこれを見殺しにするような行動に出ることが常識的に首肯できるか否かである。証拠上、被告人が人一倍花子をうとんじていたとか、同女の存在で著しく手をやいていたとうかがわせる事情は全く見当たらないばかりでなく、転落する状況を見たばかりであるとすれば、即刻相勤務者である西指導員にその旨を伝え、同人の力を借りることがさ程困難な状況にあつたとは認められないのにかかわらず、何故かような対応をとらなかつたのかが第一の疑問である。

被告人の自供によれば、「西先生に連絡しようとも思いましたが、私が一人おつたときの当直中のことでしたから責任を感じた。」というのであるけれども、当時の被告人と西指導員との人間関係に徴すると、同人に連絡することを妨げるような事情があつたとは考えられず、「一人おつたときの」出来事とはいえ、夕食に姿を見せない花子を発見し、声をかけた途端に転落したという経過であれば、被告人のみその責を負わなければならぬような事情があつたと非難されるいわれはなく、これが明るみに出るのを怖れる必要・理由も見当たらず、それにもかかわらず「つい」ふたを閉めたというのは、何としても理解に苦しむところである。

しかも、当時は、西指導員ばかりでなく、学園内には、若葉寮に勤務している者や用務員など助けを求めることのできる職員がいたのであるから、被告人がこれら職員に急を告げることに思い及ばなかつたというのも不自然であり、ましてや、単に救助の手段を講じなかつたのみならず、あえてマンホールのふたを閉めるという行動に及んだというのは到底理解し難いと言うべきである。

次に、「自分が助か」りたいため、あるいは「私が花子を殺したと思われはしないか」と懸念したため、他の園児の殺害を思い立つたというのも、論理の飛躍が甚しく、不可解と言わなければならない。

当時の被告人が花子の行方不明にからんで介護者・宿直者としての責任を厳しく追及され、本件のような残忍・非人間的な犯行を思い立たなければならないほど身の置き場のない差し迫つた状況に追いこまれていたとうかがわせる証拠はなく、いわんや被告人が花子を殺したと疑われる雰囲気があつたなど、関係証拠に徴し、到底考えられない。

現に、被告人が花子の捜索活動に参加し、本件当夜も民放ラジオによる呼びかけを思いつき、活け花の先生を通じて依頼先の電話番号を問い合わせる等の行動に出た事実は検察官も認めている。もし、被告人が本件のようなむごい犯行を心ひそかに企図していたとすれば、右のような被告人の客観的言動と「秘められた殺意」との結び付きを矛盾なく合理的に説明するのは到底不可能に近い。

第三の疑問は、被告人の動機供述がもし被告人の当時の心理状態や思惑を正しく伝えているとすれば、本件は悩み抜いたすえでの計画的な犯行と言わなければならないが、かような計画性をうかがわせる事情も見出だすことができない。むしろ、後で触れるような被告人の犯行状況に関する自白によると、年少者の就床時間で多数園児が青葉寮内を動くことが予想される時間帯で(したがつて、宿直職員が寮内を往来することも当然予測される。)、ディルームには年長の園児や宿直保母がおり、発覚の危険の大きいことが優に予見される時期に、あえて殺害計画を実行に移そうとするなど、それなりの計算を踏んだ上での計画的犯行というには無謀極まりなく、この点からしても被告人の動機供述は不自然のそしりを免れない。

ところで、勝警部補の証言に徴すると、捜査本部では被告人が太郎殺害の罪を犯したであろうとの嫌疑には自信をいだいていたものの、被告人がいかなる理由・動機でかような犯罪を敢行するに至つたのかという点に関し、釈然としない疑問をいだいていたとうかがわれる。捜査員相互の間では、種々の推理が試みられ、かなり突飛な考え(例えば、太郎の担当保母が結婚したのに嫉妬したすえでの犯行ではないか等非常識な観測)すらささやかれていたようである(勝、山崎の証言)。しかし、花子の行方不明が確認された三月一七日の当直勤務者であつた被告人が、食堂に姿を見せない花子を捜しに出たと述べていること、そこで、被告人が花子の浄化槽転落につき何らかの事情を知つており、宿直者としての責任を他の者にすりかえる意図で太郎を殺害したのではないかとの推理も成り立たぬわけではないこと、現に西田指導員が警察官の事情聴取に対しその趣旨に解される感想をもらしていること等の諸事情から、捜査員内部では、責任転嫁を狙つての犯行という見方が出ていたことは事実であつたとうかがわれる(とくに、勝証言)。

このことは、被告人に対する取調べに当たつた捜査官が本件のような動機供述を誘導する可能性のあつた事実を示唆していると言つてよい。そして、被告人が犯行を自白するに至つた前判示のような経緯や当時の被告人の心理状態に照らせば、右のごとき誘導が大きな効果を発揮したであろうことは見易いところである。

従つて、被告人の動機供述は、前判示のごとく本来すこぶる不自然なものではあるものの、取調官の誘導的な働きかけに影響されやすい内容であつたことも否定できない。当時の山崎警視や勝警部補が動機供述の獲得に並々ならず腐心していた事情を考慮すれば、こうした誘導の可能性を認めることもあながち行き過ぎではあるまい。

ところで、被告人の動機供述は、花子転落の現場を被告人が目撃していたという事実をその前提としているが、この前提自体、先にKの供述・証言を検討した部分で述べたとおり、これを裏付けるに足る証拠がなく、この点からみても、犯行の動機に関する被告人の自白は信用性を欠くものと言うべきである。

五犯行の状況等に関する供述について

犯行前後の状況等に関する被告人の供述(自白)には、本件自白の顕著な特徴、すなわち、あいまいで断片的・概括的であること、著しく迫真性を欠き、真犯人でなければ述べ得ないような事実の供述がなく、臨場感を伴わないものであること等の特徴が随所に散見される。

以下、青葉寮に侵入してのち実行行為に及ぶまでの経過に沿いながら、順次検討する。

1侵入状況等の供述

被告人の侵入状況等に関する供述は、前記のように、「うすぼんやりと憶えていますが」「よく思い出せないのですが」「……と思います」「たぶん……」等々被告人自身がその体験事実を明確に述べているとは思えないスタイルで貫かれている点に、その第一の特色がある。

更に、「仕分室の方から三つ目の部屋」という特定の方法も不自然である。取調べを担当した警察官の証言によれば、これは行方不明のままであつた花子が一人で寝起きしていた「こすもす」の部屋を指すものとうかがわれる。ところで、こすもすの部屋は、本件当時無人状態であり、花子がいつ帰つて来てもはいれるように運動場側の出入口を施錠しないままにしてあつたことが証拠上明白である。

そこで、女子棟の各居室の名称はもちろん、各居室に割当てられている園児の名前を熟知している被告人が「花子ちゃんの部屋」とか「こすもすの部屋」と言わずに「仕分け室の方から三つ目の部屋」という表現を用いたとすれば、それ自体、不自然のそしりを免れない。しかも、「子供は確かにおりましたが……」という供述は、明らかに当時のこすもすの部屋の客観的な状況と矛盾する。履き物に関する部分も極めてあいまいである。

検察官は、侵入口に関する右自白につき、当時捜査官が知り得なかつた事項に関する供述であるとし、取調官による誘導の余地がなく、真犯人なればこそなし得た重要供述である、と強調する。

しかし、当時の捜査本部では、犯人内部説をとり被告人に嫌疑を絞り込む形の捜査方針をとつていたのであるから、園児の居室からの侵入ということも、捜査官らの想定の中に当然おり込まれていたと考えるのが自然であり、この点に関し「予想だにしていなかつた供述」である旨述べている山崎警視の証言はた易く信用できないと思われる。仮に、捜査官側が当時こすもすが無人状態で、運動場側から自由に出入りし得る状況にあつた事実を把握していなかつたとしても、現実に本件当夜何者かが同室に忍び入つた事実をうかがわせるような証跡が全く発見されていないのであるから、被告人の供述をもつて「秘密の暴露」と評価できないのは言をまたない。

しかも、侵入前後の被告人の行動、出入口開閉の状況、室内の模様等自白の真実性を担保する事実関係についての具体的な供述が全くなく、かえつて、前に指摘したとおり、客観的な事実と矛盾する供述が含まれていることに照らせば、侵入状況に関する被告人の自白にはその信用性を肯定するに足る特徴が何ら認められない。

2こすもすの部屋からさくらの部屋に至る状況の供述

検察官の主張する本件の経過に照らせば、こすもすの部屋に侵入したのち殺害の対象となる園児を選び出すまでの部分は、だれにも怪しまれないように事を進めなければならぬという点で、真犯人にとつては細心の注意がはらわれて然るべき場面の筈である。それにもかかわらず、被告人の供述には、発覚の危険に配慮した気配をうかがわせる内容が全く見当たらない。最も注意を向けてよい筈のディルームの状況についての供述、廊下上の人影、明るさにかかわる供述など、たとえ不完全な自白とはいえ、何がしかの形で触れられていてもよい筈の事柄が述べられておらない。この点にも、被告人の自白に迫真性・臨場感の乏しい特色があらわれている。

3さくらの部屋から太郎を連れ出す状況の供述

被告人がさくらの部屋から太郎を連れ出した状況について述べているところは、前記のように、当時のMが供述していた内容から一歩も出ていないのが顕著な特徴である。M供述の信用性に重大な疑問のあることは先に判示したとおりであるが、そうだとすると、証明力の乏しいM供述と歩調を合わせている被告人供述も疑わしいものとしなければならない。

その点はとも角として、被告人が見かけた際の太郎について「鬼ごつこをしていた」ことの供述があるのみで、服装に関する記憶もないとされており、一方、Mに関しては、4.21員で述べられているに過ぎず、同女に目撃されたのか否かもあいまいである。

これらの部分は、太郎を連れ出すという本件犯行の出発点とも言うべき場面に相当するのであるが、それにしては、真犯人でなければ述べ得ないと思料される生々しい具体的な供述が皆無であり、当該自白の信ぴよう性を担保する状況描写が欠如している。

4太郎連れ出し後の状況の供述

太郎を連れ出したあとの状況に関して被告人の述べるところによると、前記のごとく、被告人は、太郎の抵抗、その他格別の障害もなく、一見極めてスムーズに予定どおりの犯行を遂げ得たかのようであり、太郎の動きに触れた供述の見当らない点に不自然さを覚えるのである。

太郎が暗いところを怖れる、ということは、関係証拠の随所にあらわれており、それだけに、被告人が非常口の外へ太郎を連れ出す前後から殺害行為に及ぶまでの経過の中には、たとえ一点でも二点でも、太郎の抵抗の状況やこれに対応する行動など真犯人らしい迫真性のある供述があつて然るべきではないかと思われるのであるが、被告人の供述内容はあまりにも淡々としており、到底犯人であればこその供述とは受けとれない。

第八  いわゆる繊維鑑定について

本件における繊維鑑定は、事件当時の被告人の着衣(ダッフルコート)と太郎の着衣(青色セーター)を構成する各繊維が相互に付着していた事実を明らかにし、これによつて、被告人が検察官主張のような経過・方法で本件犯行に及んだことを裏付けようとするものである。

しかしながら、本件繊維鑑定の結果は、被告人と太郎の着衣の各繊維が何時どのようにして相互に付着したのかという点までも明らかにするものではないから、仮りに相互付着の事実が立証されたとしても、付着の時期・原因・態様と本件犯行との関連性をうかがわせる事情が不明確であれば、情況証拠としての証明力に大きな限界のあることを否定できない。

ところで、本件の場合には、既に述べたように、園児供述及び第一次捜査当時の被告人の自白の信ぴよう性に関する検討の結果、被告人と公訴事実との結び付きを認めるに足る証拠が極めて不十分であると言わなければならないから、本件犯行の立証の上で繊維鑑定のもつ証拠としての説得力は著しく弱いものとなつている。したがつて、ここでは、必要な限度でごく簡単に主要な論点について言及することとする。

(一)  まず、本件における鑑定資料の収集、保管及び繊維片採取の経過について検討すると、これら一連の作業の過程でとくにずさん・軽率な取扱いがなされたと疑われる事情は見当たらず、中でも、昭和四九年三月二四日太郎の着衣から採取された黒色羊毛の二本の付着繊維及び同年四月七日被告人のコートから採取された淡青色の羊毛繊維二本の付着繊維は、それぞれの資料が同時に存在する可能性のない時点で採取されたものであるから、鑑定資料としての価値に疑いをいれる余地はないものと認められる。

(二)  本件で取り調べられた鑑定結果のうち、浦畑俊博の行なつた鑑定の手法は各繊維の染色に使用された染料の分光学的分析に基づいて染料の異同を判定しようとしたものであるところ、この方法の科学的信頼度についてはそれなりの評価を与えるのが相当であると考えられる。そして、浦畑鑑定は、右のような分析の結果、被告人のコートに付着していた繊維片二本の染料が太郎のセーターの繊維の染料と「非常に酷似する」とともに、太郎の着衣に付着していた繊維片二本の染料が被告人のコートの繊維の染料と「非常に酷似する」、「類似する」旨判定している。

ところで、右のような異同判定に際しては、分光曲線の解読にたずさわる者の主観が影響を与えることを否み難いとしても、ひとまずはその所見を尊重するのが相当であろう。

しかしながら、本件では、試験片が非常に小さいこと、資料の破壊が許されないこと等の制約があつて、化学分析等の手法を併用できなかつたため、右の浦畑鑑定の結果を尊重するとしても、色相ないし繊維質の点での相似性が高いことを肯認し得るにとどまると言うべきであろう。

(三)  一方、検察官は、本件犯行時以外の場面で相互付着を生ずる可能性は皆無に近いとの見解をとつているが、もともと繊維の相互付着という現象は着衣が直接接触した場合のみに起こるとは断定し難い上、本件当夜以外の時期・場所においても相互付着の原因となる事態があり得たとの疑いを差しはさむ余地もあり、結局のところ、本件繊維鑑定の結果が被告人の犯行を裏付けるものと解することは到底許されない。

第九  結  論

以上のように、当裁判所は、検察官の主張に沿いながら、重要な証拠関係についての検討を重ねたが、被告人と本件公訴事実との結び付きを首肯するに足る立証は不十分であるとの結論に達した。

叙上の諸点のほかにも、なお若干の論点が残されてはいるが、本件における検察官の主張及びその証拠構造のもとでは、その余の問題に言及するまでもなく、刑訴法三三六条にしたがい、主文のとおり判決するのが相当である。

(裁判長裁判官角谷三千夫 裁判官池田美代子 裁判官山本剛史)

別紙(一)甲山学園見取図

別紙(二)青葉寮平面図

別紙(三)

室番号

室名

児童氏名

生年月日

1

ゆり

昭和四〇年  一月二五日

丙井初美

〃 三九年一〇月  二日

〃 三九年  三月一七日

丙本千鶴

〃 二四年  八月一二日

2

ぼたん

丙上典子

〃 四一年  三月  四日

〃 三三年  三月二二日

〃 三二年  三月二三日

3

ばら

丙本はるみ

〃 二九年一〇月二七日

丙楽岡薫

〃 三九年一二月三一日

丙山緑

〃 三八年一〇月二九日

4

こすもす

丁川花子

〃 三七年  二月二八日

5

うめ

丙富子

〃 三一年一〇月  一日

丙田一江

〃 四〇年  七月二七日

丙谷洋子

〃 三九年一〇月  七日

6

さくら

〃 三八年  六月三〇日

〃 三七年  四月  四日

8

あすなろ

丙崎英世

〃 三四年一一月  二日

9

いちょう

丙肥一郎

〃 三七年一〇月二四日

丙井仁

〃 三七年  五月三〇日

丙清一

〃 三六年  九月二六日

〃 三三年  八月  四日

10

きり

〃 四一年  二月  六日

丙田和浩

〃 四〇年  七月  七日

丙口優

〃 三六年  九月  五日

丙島一郎

〃 三三年一〇月  二日

11

まつ

丙川太郎

〃 三六年  九月二三日

〃 三五年一〇月一五日

〃 三三年  三月二四日

12

ひのき

丙河路哲郎

〃 四二年一二月  四日

丙本健治

〃 三九年  九月二七日

〃 三七年  一月二一日

丙山美智雄

〃 三六年  一月一八日

13

すき

丙田早苗

〃 四二年一二月一八日

丙合渡

〃 三八年一〇月  五日

丙口宏宣

〃 三七年  三月  二日

〃 三五年一二月一九日

14

もみ

丙水宏一

〃 四一年一〇月一五日

丙山龍浩

〃 三九年  二月一一日

丙山晃

〃 三六年  三月二四日

丙原博司

〃 三四年  六月  四日

15

かし

丙田好孝

〃 四三年  二月  七日

〃 三九年  三月一四日

丙本幸一

〃 四〇年  四月三〇日

〃 三七年  九月二六日

16

くす

〃 三七年  八月一三日

〃 三九年一〇月一三日

〃 三六年一二月二五日

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